ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第21番「ヴァルトシュタイン」 第1楽章

ピアノ演奏:エミール・ギレリス Emil Gilels

第1楽章第1-2楽章第3楽章

ピアノソナタ第21番 ハ長調 作品53は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ。『ヴァルトシュタイン』という通称で知られる。

衰え続ける聴力はベートーヴェンを悩ませ、1802年にはハイリゲンシュタットの遺書を書かせるまでとなった。1803年、難聴とともに生きる道を模索しつつあったベートーヴェンの元にエラール製のピアノが贈られる。5オクターヴ半の音域を備えたこの楽器の音色は聞こえにくくなった作曲者の耳を刺激するにも十分であり、その結果「これまでになく輝かしく壮麗」と評されるピアノソナタが生み出されることとなった。

作曲が行われた1803年から1804年はヴァイオリンソナタ第9番(クロイツェル)や交響曲第3番(英雄)などの傑作が生みだされた時期に重なる[5]。ベートーヴェンの作風はヴィルヘルム・フォン・レンツが提唱した3分類における中期様式へと移行し、それまでとは全く異なる独自の境地へと進みつつあった。この作品も構成は壮大にして抒情性は豊かに広がり、管弦楽的な書法はピアノ音楽史に新たな地平を切り拓くものと評されている。レンツはこの曲を「ピアノのための英雄交響曲」と評している。

『ヴァルトシュタイン』という通称は、この曲がフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵に献呈されたことに由来する。ヴァルトシュタインはボン時代からのベートーヴェンの後援者、理解者のひとりであり、若き才能に経済的援助を行うとともに精神的な支えにもなった。1792年、彼はウィーンへ向けてボンを発つベートーヴェンを「モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りなさい」という言葉とともに送り出している。

この曲にはもともと長大な第2楽章が準備されていたものの、曲全体が聴きばえがしないという指摘に納得した作曲者(ベートーヴェン)により現行のものと差し替えられた。アダージョ・モルトの現在の第2楽章が残りの楽章とは異なる時期に書かれたものであることは確実であるとされている。全曲は1804年夏に完成され、1805年にウィーンの美術工芸社から出版された。初版時の表題は「ピアノフォルテのための大ソナタ」であった。外されたオリジナルの第2楽章はソナタより4か月遅れて別途に出版され[4]、1807年にブライトコプフ社から出された版において『アンダンテ・ファヴォリ』と名付けられた。

第1楽章 Allegro con brio 4/4拍子 ハ長調
ソナタ形式。まず提示される第1主題では、打楽器的な和音連打とそのエコーのような音型が繰り返される。和音連打は弦楽器の奏法を想起させるようなトレモロとなって反復される。
エコーの音型による動機操作を元に様々な調を経て、推移部はホ短調の半終止となる。パッセージを多用した第1主題と対照的なコラール風の第2主題は、遠隔調にあたる長3度上のホ長調で提示され、得難い効果を発揮している。ソナタ形式にあっては異例の調性配置であるものの、ベートーヴェンは既にピアノソナタ第16番の第1楽章の両主題でこれと同様の扱いを実践している。

低声部へ移った第2主題は右手に3連符の対旋律を伴い、さらにこれがリズム要素を加えられて発展し、16分音符のパッセージに至る。コデッタには新素材があてられ、これを繰り返しつつハ長調となって提示部を終える。展開部はヘ長調で開始され、はじめは第1主題のモティーフによって展開される。ハ長調に至ると第2主題から導かれた3連符の音型による展開が行われる。長いスパンによって和音が変化し、さらに第1主題の回帰を予言するドミナントペダルが執拗に続いた後に再現部となる。再現部ではまず第1主題にやや拡大された経過句が続く。イ長調で再現された第2主題がハ長調に落ち着き、提示部の要領にしたがって今度はヘ長調の偽終始で終結する。ここから長大なコーダが続き、第1主題が展開されてカデンツァと見まごうばかりの発展を遂げる。ハ長調で第2主題を回顧した後、第1主題が軽く扱われて堂々と終わる。

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