指揮者: レオポルド・ストコフスキー Leopold Stokowski

レオポルド・アントニ・スタニスラフ・ボレスラヴォヴィチ・ストコフスキー(Leopold Antoni Stanislaw Boleslawowicz Stokowski, 1882年4月18日 - 1977年9月13日)は、20世紀における個性的な指揮者の一人。イギリスのロンドンに生まれ、主にアメリカで活動した。


生涯

父のコパーニク・ジョーゼフ・ボレスラフ・ストコフスキーはポーランド移民で、母のアニーはアイルランド移民であった。教会のオルガニストとしてキャリアをスタートしたが、1909年5月12日にパリで指揮者としてデビュー、その6日後にはロンドンでもデビューした。シンシナティ交響楽団の常任指揮者を経て、1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任、以来1940年にいたるまでその地位を守った。ストコフスキーはフィラデルフィア管弦楽団を世界一流のアンサンブルに育てた。しかし、任期の最後の方では楽団サイドとはうまく行かず、ユージン・オーマンディと共同監督という形が取られた。ストコフスキーはこれに不満があったのか、フィラデルフィア管弦楽団とのコンサートは、辞任後の1941年に戦前最後のコンサート(バッハのマタイ受難曲)をした後、1960年まで途絶えることとなった。

その後は全米青年管弦楽団(1940年 - 1941年)、ニューヨークシティ管弦楽団(1944年 - )やアメリカ交響楽団(1962年 - )といったオーケストラを創設、また、NBC交響楽団(1941年 - 1944年)、ヒューストン交響楽団(1955年 - 1960年)の指揮者を歴任した。その一方で、戦後はヨーロッパ諸国など世界各地への客演も活発におこなった。1961年には生涯で唯一オペラハウスで指揮をし(メトロポリタン歌劇場にて、プッチーニの「トゥーランドット」)、1965年には日本フィルハーモニー交響楽団と読売日本交響楽団を指揮するために来日している。最晩年の1973年にアメリカ交響楽団を秋山和慶に譲って故郷イギリスに帰り、生涯現役(ただし公開の演奏会に出演したのは1975年が最後)を貫いて精力的に音楽活動を続けた。1976年、94歳の時にはCBSコロンビアと6年契約(契約満了時に100歳を迎える計算となる)を結んだが、1977年9月13日正午前にハンプシャー州ネザーウォロップの自宅で心臓発作により95歳で没した。19日からラフマニノフの交響曲第2番をレコーディングする予定であり、数年後にはベートーヴェンの「田園」をデジタルレコーディングする予定もあり、ストコフスキー本人は100歳まで現役を続けるつもりで契約をしていた。

幅広い音楽活動

ストコフスキーはメディアへの関心が深く、早い時期からレコーディングに積極的であった。まだアコースティック録音の時代であった1917年以来、膨大な数の録音を行った。最初の録音はブラームスのハンガリー舞曲第5番と第6番であった。1925年に初めてオーケストラの電気録音を行い、1932年には当時の米ベル研究所により、これも世界初となるステレオ録音を行った。
また、「オーケストラの少女」や、ディズニーの画期的な音楽アニメーション「ファンタジア」など映画にも出演し、クラシック音楽の大衆への普及に努めた。「ファンタジア」により1941年の第14回アカデミー賞の特別賞をウォルト・ディズニーとともに授けられた(当時のアカデミー賞には、アニメに対する賞は設けられていなかった)。
一方で、ストコフスキーは様々の困難を乗り越えて(保守的なオーケストラの理事会との対立、経済的な困難に対しては私財をなげうつこともあった。後者に関しては、1962年のアメリカ交響楽団の創設につながってゆく)、しばしば難解なものであった同時代の音楽の擁護にも力を注いだ。アメリカの聴衆にマーラー、ベルク、シベリウス、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチらの作品を紹介、また、ラフマニノフ、シェーンベルク、ヴァーレーズ、アイヴズなどの作品を世に送り出した。ストコフスキーが世界初演、あるいはアメリカ初演したうちの代表的なものは以下の通りである。
1916年交響曲第8番「千人の交響曲」(マーラー)、「アルプス交響曲」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演
1922年「春の祭典」(ストラヴィンスキー)、「恋は魔術師」(ファリャ)アメリカ初演
1931年歌劇「ヴォツェック」(ベルク)アメリカ初演
1932年「グレの歌」(シェーンベルク)、左手のためのピアノ協奏曲(ラヴェル)アメリカ初演
1934年「パガニーニの主題による狂詩曲」(ラフマニノフ)世界初演
1937年交響曲第3番(ラフマニノフ)世界初演
1940年交響曲第6番(ショスタコーヴィチ)アメリカ初演、ヴァイオリン協奏曲(シェーンベルク)世界初演
1947年「メタモルフォーゼン」(リヒャルト・シュトラウス)アメリカ初演
1965年交響曲第4番(アイヴズ)世界初演

演奏スタイル

ストコフスキーは、16世紀のルネサンス音楽から前述の20世紀音楽に到る極めて幅広いレパートリーを手中に収めており、どんな曲でも常に新鮮で刺激のある演奏をした。ストコフスキーはオーケストラを操る達人であり、指揮棒を使わずに指揮を行い(指揮棒を使わない理由については「1本の棒より、10本の指の方が遥かに優れた音色を引き出せる」と語っている)、表情豊かな音楽を引き出した。楽曲をより分かり易く、効果的に響かせるために楽曲の改変をも辞さず、批評家をしばしば敵に回したが、その生命力あふれる独創的な解釈と、「ストコフスキー・サウンド」と呼ばれた華麗な音色で、聴衆の圧倒的な人気を得た。「音の魔術師」の異名はこの独特の演奏手法に由来する。
また、よりよい音響を求めて舞台上におけるオーケストラの配置も研究し、それまで多く採用されていた第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右両翼に分けた配置を、現在のようにまとめて配置する形を生み出したのはストコフスキーであり、この配置は「ストコフスキー・シフト」と呼ばれて、以後の世界のオーケストラを席巻することになる。彼自身は、その後弦楽器群と管楽器群を左右に分ける配置を多く使うようになった。 この他、イングリッシュホルンやホルン等のソロパートに強烈なビブラートを掛けさせることでも有名で、この点も好き嫌いを分ける要因である。
オルガン曲、ピアノ曲などのオーケストラ編曲にもすぐれた手腕を見せ、特に「トッカータとフーガ ニ短調」などJ.S.バッハの作品を編曲したものは有名で、今日でも演奏されている。「トッカータとフーガ ニ短調」は当初、オーケストラの練習用に編曲されたが、殊のほか好評だったので演奏会にかけてみたところ評判をとった。批評家らはストコフスキーの編曲によるバッハの作品を「バッコフスキー(バッハ+ストコフスキー)作曲」と揶揄したが、聴衆の支持もあってストコフスキーの編曲によるバッハの作品は数多くレパートリーに加えられるようになった。ストコフスキーは1962年、自身の編曲によるバッハの作品に関してこう述べている。
「彼が私の編曲をどう思うか。それは私の死後の運命がどうなるか分からないけど、とにかく行った先で彼に会ってみないことには何とも言えない。」
ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲も手がけている。最も有名なラヴェル編曲版では冒頭の「プロムナード」のメロディをトランペットが演奏するのに対して、ストコフスキー版では弦楽器が演奏するようになっている。この様な独特の解釈により、ラヴェル版に勝るとも劣らない魅力的な編曲に仕上がっている。また、シェーンベルク作曲の「浄夜」も、作曲者自身の編曲によるオーケストラ版ではなく、オリジナルの弦楽六重奏曲からのストコフスキー編曲版が録音されている。

ストコフスキーと日本

戦前の日本においては、一部識者を除くとストコフスキーは人気指揮者の一人であった。当時日本で発売されていたストコフスキーのレコードが、「カルメン」など日本で通俗的な存在の曲目が多く、演奏家より曲目でレコードを買う傾向が強かったとされる戦前のレコード愛好家にとってはストコフスキーのレコードは「外れが少ない」レコードであった。また、近衛秀麿とも親しかった。
そのストコフスキーが日本の地を踏んだのは、1965年7月のことであった。日本フィルハーモニー交響楽団と、当時日フィルを支援していたフジテレビ系の外郭団体が招聘元であり、東京文化会館と日本武道館でコンサートを開いた。
1965年7月8日の公演(東京文化会館)
バッハ:パッサカリアとフーガ ハ短調
アイヴズ:「答えのない質問」
柴田南雄:「シンフォニア」
チャイコフスキー:交響曲第4番
1965年7月13日の公演(日本武道館)
バッハ:トッカータとフーガ ニ短調(ストコフスキー編)
ベートーヴェン:交響曲第5番
ヘンリー・カウエル:琴と管弦楽のための協奏曲
ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」
スーザ:「星条旗よ永遠なれ」(アンコール)
この公演では、ストコフスキーは弦楽器群のチェロとコントラバスと管楽器群の位置を変えるなど、独特の楽器配置を行ったりした。また、「星条旗よ永遠なれ」の演奏では、警視庁音楽隊や在京各学校の鼓笛隊などから人員を集め、ピッコロ26、トランペット10、トロンボーン12を以って金管部分を大補強した。
一方で、武道館の公演では正力松太郎の横槍でなかなか公演許可が下りないなど苦労もあったが、一番大きな事件は読売日本交響楽団との二重契約騒動であった。これは、結果的には招聘元の外郭団体がストコフスキー招聘の成功直後に活動を停止してしまったことと、ストコフスキーがマネージャーを持たなかったことに原因があった。契約条項に「フリーの日は日フィルは干渉できない」云々という一文があったため、日フィル側は「見て見ぬふり」で読響との公演を黙認したが、結果的に認められたのは7月10日の読響公演のうちベートーヴェンの交響曲第7番の指揮のみであり、他に企画されていた公演は契約条項や滞在許可の兼ね合いもあり、中止となった。

Wikipedia

inserted by FC2 system