テノール:ペーター・シュライアー Peter Schreier
ピアノ:スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Richter
プーシキン美術館 Pushkin Museum in Moskau
1. Gute Nacht 0:44
2. Die Wetterfahne 7:33
3. Gefror’ne Tranen 9:29
4. Erstarrung 12:21
5. Der Lindenbaum 15:31
6. Wasserflut 21:08
7. Auf dem Flusse 25:48
8. Ruckblick 29:31
9. Irrlicht 31:50
10. Rast 35:06
11. Fruhlingstraum 38:33
12. Einsamkeit 42:55
13. Die Post 46:08
14. Der greise Kopf 48:31
15. Die Krahe 51:43
16. Letzte Hoffnung 53:06
17. Im Dorfe 54:54
18. Der sturmische Morgen 57:56
19. Tauschung 58:48
20. Der Wegweiser 1:00:18
21. Das Wirtshaus 1:05:12
22. Mut 1:09:52
23. Die Nebensonnen 1:11:16
24. Der Leiermann 1:14:01
夜明けに村にたどり着く。人々は心地よい眠りにつき、聞こえるのは犬の遠吠えと鎖の音。自分にはもう希望もなく、この人々とは違うのだ、と孤独を感じて終わってしまう。中間部で、ジョヴァンニ・パイジエッロの歌劇「美しき水車小屋の娘」La bella Morinalaのアリア「もはや私の心には感じない」Nel cor piu non mi sentoが引用されている。この引用については、歌劇の分野で成功しなかったシューベルトの皮肉である、あるいはビーダーマイヤー期の、小市民的なウィーン人の生き方への揶揄である、など、様々な説がある。
町へ続く道しるべを見つけるが、それを避け人の通らない道を行こうとする。若者は死を目指している。詩の最後に出てくる「誰も帰ってきたことのない道」Die noch keiner ging zuruck.とは、墓場へ通ずる道のこと。ジェラルド・ムーアは著書の中でこの曲の前奏の「歩み」が第5小節の主和音で阻まれる問題点を指摘、シューベルトに対する「不敬罪」ではあるが、と断りを入れた上で第5小節を削除する提案を行っている。
若者には三つの太陽が見える。そのうち二つは沈んでしまったと歌う。原題のNebensonnenは日本で幻日と呼ばれる自然現象のことで、左右両側に幻日が現れると、太陽は三つとなる。しかし気象条件が変化すると左右二つの幻日は消えてしまう。しかしジェラルド・ムーアが著書の中で想定しているとおり、自然現象よりも「比喩」としての意味が大きい[4]。音楽学者 A. H. フォックス・ストラングウェイズは「3つの太陽によって『誠実、希望、生命』が表され、その内の二つである誠実と希望が消え、旅人はもはや生命も失っていいと考えている」と説明している[4]。邦題は「三つの太陽」や「幻日」と訳されることもある。
24. 辻音楽師 Der Leiermann
「ライアー回し」と訳されることも多い。村はずれで一人の年老いた辻音楽師と出会う。虚ろな眼で、ライアー(ハーディ・ガーディ)(手回しオルガン)を凍える指で懸命に回している。聴く者もなく、銭入れの皿も空のまま。しかし周りに関心を示さず、ただ自分ができることを、いつまでも続けている。若者は自分と同じく世界の全てに拒絶されるという境遇に置かれた孤独な人間と出会い、僅かな希望を見出す。『老人よ、お前についていこうか、僕の歌に合わせてライアーを回してくれるかい?』という問いかけで全曲を閉じる。全曲を通じて空虚五度が、オスティナートとして一貫して演奏される伴奏はライアーの描写であり、レツィタティーフの様式の歌は旅人の独り言である。ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、語らないことによって多くを語る音楽であると解説している。またフィッシャー=ディースカウはこれに関連して、これに類似する音楽は、世界中を探しても、恐らく日本の能楽以外にはないのではないか、と述べている。ジェラルド・ムーアは「この曲の偉大さを認めながらもその理由を説明することができないという点において奇跡であり、シューベルトの魔術の最高例」と評している。リチャード・カペルは「何度考えても、最後の歌がこのようなものであろうとは誰も考えなかったであろう」と語っている。ジェラルド・ムーアは最後のフレーズに続く伴奏のフォルテの指示(第58小節)について「認めがたく、不適切であり、程度が増せばますほど嘆かわしい」と述べている[4]。:ブラームスは作品113の『13のカノン』第13曲「もの憂い恋のうらみ(Einformig ist der Liebe Gram)」(作詞:リュッケルト)にこの曲のメロディを使っている。