雪山讃歌

作詞:西堀 栄三郎 アメリカ民謡歌
歌:デューク・エイセス Duke Aces

雪山讃歌は、 1927年(昭和2年)1月、京都帝國大学山岳部の仲間たちと群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉に来ていた西堀榮三郎(のち第一次南極観測越冬隊隊長)が、冬場の雪で足留めを食らった際に、退屈を紛らわせるために仲間たちと「山岳部の歌を作ろう」を話し合い、詩を書いた。それがこの曲である。

山岳部の仲間内で気に入っていたという『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling, Clementine)』のメロディーに言葉を当てはめ、好きなままに詩を作ったということを、西堀自身が後に著書で明かしている。

この曲が世に出た時は、作詞者不詳とされたが、桑原武夫(京都大学人文科学研究所教授)が西堀榮三郎を作詞者として著作権登録の手続きを行った。この著作権印税に拠って京都大学山岳部の財政が潤ったという逸話もある。

後に本作の代表的なアーティストとなるダークダックスのメンバーは、グループ結成前の1950年(昭和25年)頃、慶應ワグネルのメンバーで志賀高原にスキーに訪れた際、バスの車掌が口ずさんでいるのを聴き、初めてこの曲を知った。

後に、鹿沢温泉に『雪山讃歌』の歌碑が建立された。 また、この歌の発祥の地である嬬恋村では、正午を告げる防災無線のチャイムに使用している。

歌唱歌手
「雪山讃歌」の代表的な歌い手とされているダークダックス(1956年8月)
1958年7月にダークダックスがテイチクレコードでレコーディングし、同年9月に5曲入りEP『ピクニック・ソング』(テイチク NEP-1052)の1曲として発売し、翌1959年6月にシングルカットされた。同年の第10回NHK紅白歌合戦で歌唱した。ダークダックス盤は1959年のテイチクの流行歌レコード売上で年間10位を記録した。1959年にはフォー・コインズがコロムビアレコードからシングルとして発売した。その他1950年代より、デューク・エイセス、ボニージャックスなどが歌唱し、アルバムに収録していた。

1.雪よ岩よ われ等が宿り
  俺たちゃ 街には
  住めないからに
2.シール外して パイプの煙
  輝く尾根に
  春風そよぐ
3.煙い小屋でも 黄金の御殿
  早く行こうよ
  谷間の小屋へ
4.テントの中でも 月見はできる
  雨が降ったら
  濡れればいいさ
5.吹雪の日には 本当に辛い
  ピッケル握る
  手が凍えるよ
6.荒れて狂うは 吹雪か雪崩れ
  俺たちゃ そんなもの
  恐れはせぬぞ
7.雪の間に間に キラキラ光る
  明日は登ろうよ
    あの頂に
8.朝日に輝く 新雪踏んで
  今日も行こうよ
  あの山越えて
9.山よさよなら ご機嫌宜しゅう
  また来る時にも
  笑っておくれ

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