「コサックの子守歌」Cossack Lullaby

訳詞:津川主一 / 編曲:小川寛興
歌:倍賞千恵子

「コサックの子守歌」(ロシア語: Казачья колыбельная песня、英語: Cossack Lullaby)はロシアの作家ミハイル・レールモントフがカフカスへ流刑中に、テレク・コサック軍の地で採譜した子守歌である。

歌の背景
1837年、ロシアの文豪アレクサンドル・プーシュキンはジョルジュ・ダンテスを相手に決闘をして、その時の傷で2日後に亡くなった。これを聞いたミハイル・レールモントフは「詩人の死」と題する詩を書いて、当時のロシア皇帝の取り巻きの貴族階級の犠牲になったことを嘆いた。 それが貴族階級を糾弾するように取れる内容になったので、彼はカフカースへ流刑された。

レールモントフはカフカスのテレク・コサック軍の地で老婆が歌っていた子守歌を1838年に採譜し、ロシア語詩に直したのがこの「コサックの子守歌」で、当時テレク・コサック軍は現在のオセチア地方で、テレク川を越えて東から侵犯してくるイングーシ人、チェチェン人と戦って、ロシア辺境の守りとなっていた。
彼はこれをモスクワへ持ち帰ったために広く流布するようになった。実際には、レールモントフはサンクトペテルブルクへ帰る途中のヴォロネジで採譜をしたという。

この子守歌は、ソ連時代には歌詞の2番以降が構成諸地方に住むチェチェン人を疎外する内容であまり歌われなくなったが、日本では津川主一訳の「眠れやコサックの いとし子よ」で始まる歌詞、度会祐一訳の「眠れや愛し子 安らかに」で始まる歌詞などが好んで歌われていて 、日本で編集する「世界子守歌集」などにも必ず含まれる。

倍賞千恵子/ロシア民謡をうたう”に収録
 コサック(コザック)の子守歌については、二木紘三先生のHPより。
 コサックは、タタール人のグループに、支配者の抑圧や収奪を嫌った農民や職人たちが加わって軍事的共同体を築いたのが始まり。ドニエプル川(ドネプル川)中流域のザポロージャ地方に根拠地を築いたザポロージャ・コサック、そこから分かれてドン川下流に勢力を築いたドン・コサックが有名ですが、そのほか幾つかの地域にもコサックの共同体ができました。
 コサックは、自由な人とか豪胆な者を意味するトルコ語が由来で、ロシア語ではカザークといいます。騎兵戦を得意とした勇猛な民族です。  17世紀後半から18世紀にかけて、たびたび帝政政府に対して反乱を起こしました。民謡『ステンカ・ラージン』に歌われたラージンの乱や、プーシキンの小説『大尉の娘』に描かれたプガチョフの乱がとくに有名です。
 この曲については、帝政ロシアの詩人で作家のミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаи?л Ю?рьевич Ле?рмонтов 1814-1841)が、軽騎兵士官としてテレク河畔のある村に宿営していたとき、コサックの若い母親の歌う子守歌に感動して採譜、1838年に作詞したもの。
 津川主一訳詞版は、原詞の1番だけを扱ったもので、赤ん坊を寝かしつける母親の優しい気持ちが歌われています。ところが、2番では「テレク川の岸を獰猛なチェチェン人が短刀を研ぎあげてよじ登ってくるわ。でもお父さんは古強者だから、安心しておやすみ」、3番では「時が来ればおまえも銃をとって馬に乗り、戦いに明け暮れるようになるでしょう」と、子守歌にはまったくふさわしくない歌詞になります。  4番以降は、息子をそうした戦いに送り出さなければならない母親の辛さ、悲しさが歌われています。

そして、今、
「私たちは敗れることはない!なぜなら我々はコサックの一族だからだ!」 ロシアによる軍事侵攻が続く中、ウクライナのゼレンスキー大統領は、2022年6月、国民に向けたビデオメッセージでこう呼びかけました。

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