ピアニスト:ヴィルヘルム・ケンプ Wilhelm Kempff

ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff, 1895年11月25日-1991年5月23日)は、ドイツのピアニスト、オルガニストである。作曲も行い、バッハの作品をピアノ小品として編曲したものも残している。

生涯

幼少期からヴァイマール共和国時代

ブランデンブルク州・ユーターボーク(ドイツ語版)に生まれ、父親がポツダムのニコライ教会オルガニストに就任したのちは、幼時よりピアノ、オルガンを学び、卓越した才能を示した。ベルリン音楽大学でロベルト・カーン(ドイツ語版)(作曲)とカール・ハインリヒ・バルト(ピアノ)に師事し、1917年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、1918年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番で協演した。1920年にはシベリウスの招きで北欧を歴訪、スウェーデン王室よりLitteris et Artibus勲章を授与された。この年にはドイツ・グラモフォンにベートーヴェンのエコセーズWoO.86およびパガテル集Op.33-5を初録音している。1924年から1929年にはマックス・フォン・パウアー(ドイツ語版)の後任としてシュトゥットガルト音楽大学の学長を務めた後、1931年にはポツダムの大理石宮殿で、マックス・フォン・シリングス、オイゲン・ダルベール、エトヴィン・フィッシャー、エドゥアルト・エルトマン、エリー・ナイ、ゲオルク・クーレンカンプらと共同でサマークラスを開催した。1932年にはベルリンのプロイセン芸術協会の正会員となり、ドイツ楽壇の中心的役割を担うようになった。

ナチス・ドイツ時代

ナチスの台頭後、既にプロイセン芸術協会の会員であったケンプは、1933年に十字勲章(Ritterkreuz des Griechischen Erloserordens)を授与されている。この時代はケンプにとって辛い時期であった。台頭後もケンプはドイツに残ったが、演奏会やレッスンによる収入が途絶え、経済的に困窮した。ケンプ自身は(他のドイツに残った芸術家と比べても)積極的に「ナチス寄り」の発言をすることはなかったが、それでもナチスを逃れ亡命したドイツ人芸術家に批判的な言葉を投げかけたり、1936年に当時のドイツ文化使節として初来日した。戦時中の演奏会は、1940年にアーヘンでカラヤンと協演、1943年にはパリのベートーヴェン・フェスティバルに、エリー・ナイ、アルフレッド・コルトー、ジネット・ヌヴー、ヘルマン・アーベントロートと共に出演した。この時期も定期的に録音を残しており、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集(後期:1935-1936年、初期:1940年、中期:1943年)、ピアノ協奏曲第3~5番(1942年)などを吹き込んでいる他、戦後まもない1945年10月にハンブルク放送局でのリサイタル収録も存在する。1944年にナチス政権のプロパガンダのため兵役免除リストに載っていたにも関わらず、1945年にはベルリンの国民突撃隊として招集されたため、バイエルンのツルナウ城に避難しそこで終戦を迎えた。

この時期に作曲家人生をほぼあきらめざるを得なくなり、専業ピアニストとしての活動にシフトすることとなった。ベニート・ムッソリーニに献呈された作品が汚点になったと考えられている。オペラ作曲は1940年代で途絶えることになった。

第二次世界大戦後

ケンプは戦後、ナチス時代の経歴のため、ナチスに協力したと疑われ、演奏会が開けない時期もあった(この辺りの経緯はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの場合と似ている)。しかし、この演奏禁止時に、弱点であった技巧の弱さをある程度克服して以前よりも安定感のある演奏技術を身に付ける事に成功し、また、この苦難を乗り越える事で精神的な深みを増したと言われる。実際にケンプ本人も「この困難は自分を人間的・芸術的に高めてくれた」と後のインタビューで語っている。

戦後のケンプの演奏スタイルは、1950年代の技巧と解釈が高度に均衡した録音に比べ、1960年代以降はよりファンタジーに富んだ自由闊達なものとなり、現在多くの人がケンプの演奏を評するとき、この晩年のスタイルを差して、技巧よりも精神性を重視する演奏家とみなしている。「このピアニスト(ケンプ)が、自由闊達な霊感に満ちたすぐれた一夜の演奏会を持つ場合には、コルトーの最大の瞬間との比較をも恐れるにたりぬ、確然たる奇跡が約束されている。ときに見られるテクニックの不均衡やピアニスティックな造形の不明確などは、もうどうでもよくなってしまう」(ヨアヒム・カイザー、独評論家)などの評から分るように、ケンプの本領は実演にあり、そのよさがうかがい知れる録音は少ない。生前はドイツ・グラモフォンの専属アーチストとしてスタジオ録音で評価されたが、フルニエとライブ録音したベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集が1964年にリリースされた他、生誕100周年の1995年を境に世界各地の放送局に残されたライブ録音(独BR、NHK、英BBC、墺ORF、仏ORTFなど)も聴けるようになった。その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあった。アルフレート・ブレンデルはマルチン・マイヤーとの対談集「The Veil of Order(2002年)」で、「(ケンプは)まさしくそよ風で鳴るエオリアンハープのように、心の赴くままに演奏した。あなたはそれが(霊のように)どこから生まれどこに行くのか知らない。」とする一方で、ケンプを彼の世代で「もっともリズミカルな」ピアニストとみなし、リストのピアノ曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」(1950年、英デッカ収録)をミスタッチなしで録音することに成功した最初のピアニストとして評価している。ちなみに、大指揮者フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中でも、特にケンプの芸術に深い関心と理解とを示した。2人の演奏スタイルには、深い精神性や溢れる高揚感、ドイツ伝統の巨視的な楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作など、少なからず共通する所があったといえる(また、実際にフルトヴェングラーはケンプ作の交響曲の初演をつとめ、また、ケンプもフルトヴェングラー自作自演の「テ・デウム」の演奏にオルガンで参加している)。(フルトヴェングラーがケンプの交響曲第2番の初演を1924年3月6日にライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と行っているのは確か。フルトヴェングラーの自作の「テ・デウム」の演奏は1911年12月6日のものしか記録になく、当時16歳のケンプが参加していたとは考えにくい。ただし、1967年のHans Chemin-Petit指揮のレコーディングにはオルガン奏者として参加している)。

晩年

1991年5月23日、イタリアのポジターノでパーキンソン病のため95歳の生涯を閉じた。その数年前の引退の際には「もう私は、病気のため弾けません」であったと伝えられる。

ケンプは親日家であり、1936年の初来日以来、10回も来日した同時代の「巨匠」は他にいなかった。古くはあらゑびす著「名曲決定盤」にベートーヴェンのピアノ・ソナタについて紹介されたほか、1954年には広島平和記念聖堂でのオルガン除幕式に伴い録音を行い、被爆者のために売り上げを全額寄付している。調律師も大石雪治という日本人を起用していた。1970年にはベートーヴェン生誕200周年記念で来日し、ピアノソナタおよびピアノ協奏曲の全曲演奏会を森正とともに行った。自叙伝 の『日本語版への序文』では、「(日本に接して)最もすばらしかったのは、相互に愛情が生まれたことでした」と述べている。

没後

1990年代以後、ヒストリカル・レコーディングの復興がCD時代に爆発的に進み、ケンプも1920年代の演奏から復刻されることが相次いだ。香港マルコポーロからは、ケンプのピアノ作品がまとめてリリースされた。日本ではピアノソナタ全集ライブがボックスで発売されるなど、いまだに人気が強い。彼のナチスとの関係を含め、コンポーザー=ピアニストが新しく出現したことに伴い、彼の技巧の弱さや総合的な音楽性は再評価の兆しを見せている。しかし、作曲作品については未だに評価の安定を見せていない。

録音

ケンプは大バッハからブラームスにいたるドイツ古典派、ロマン派の作品を得意のレパートリーとしていた。1920年の初録音以来、60年余りの長きにわたる演奏活動で録音も数多く、1950年代の一時期に英デッカで何枚かのロマン派作品のアルバムを製作したことを例外として、一貫して戦後ドイツ・グラモフォンに録音を行った。主要な業績としてベートーヴェンのピアノ協奏曲は2種類、ピアノソナタの全集が、1920年代から40年代に吹き込まれた未完の78回転、1950年代のモノラル(スタジオ)、1960年代モノラル(ライブ)、ステレオ(スタジオ)の4種類が残されている。

ピエール・フルニエと組んだベートーヴェンのチェロソナタ全集と、ヴォルフガング・シュナイダーハンと組んだベートーヴェンのヴァイオリンソナタの全集も極めて評価が高い。また、それらが広く演奏されるようになる前、1960年代にシューベルトのピアノソナタを世界で初めて全集として録音した。ドイツの音楽家としての責務からか、ベートーヴェンとシューベルトのオーダーが多かったようだが、実はショパンやリスト、フォーレ、自作の録音も現存する。

ベートーヴェンのピアノソナタ全集吹き込みの挑戦回数はよく誤解されるが、正確には4回であり3回ではない。1回目は78回転、2回目はモノラル33 1/3回転、3回目でモノラル 33 1/3回転が想定されていたNHKラジオ放送用日本ライブ、そして4回目でステレオ 33 1/3回転のスタジオ録音である。1回目の全集は1920年代から40年代にまで渡った演奏でフランス・DANTEからかなり復刻されたが現在は入手困難。2回目、3回目と4回目の録音は現在も入手可能であるが、2013年に復刻された3回目の録音は日本以外では手に入らない。年齢と技術の関係からか、1回目の録音が最も脂がのっており、1960年代の3回目と4回目の演奏は幾分安全運転ぎみである。

生前に作曲作品の録音の話はヴァルター・ギーゼキング同様にほとんど上がらなかった。アンコールピースが遺されている程度である。また彼のオルガン演奏は、教会で多くの即興を行っていたことが文献から確認できるが、来日時の例外を除き録音がほとんど残っていない。DANTEのライナーには「ケンプはグロトリアン・スタインヴェグを好んで使い、78回転のリリースはほぼこのピアノかベヒシュタインである」と書かれているが、戦後はスタインウェイなどの他のモデルも弾いているようであり、常にベーゼンドルファーに固執したバックハウスとは違っている。

Wikipedia

inserted by FC2 system