バス・バリトン歌手: ジョージ・ロンドン George London

ジョージ・ロンドン(George London, 1920年5月30日 - 1985年3月24日)は、カナダ出身でアメリカ合衆国を中心に活躍したバス・バリトン(英語版)歌手。

多彩なレパートリーを駆使して冷戦下のソビエト連邦を含む世界各地の劇場に出演したが、発声障害によりわずか47歳で歌手としてのキャリアを終えた。その後は後進の育成とオペラの演出を手掛けたが、こちらも病により道半ばで終止符を打った。歌手としてのキャリアこそ短かったものの、生涯に出演した公演には記念碑的なものが多く含まれている。

カナダ出身ではあるが、参考サイトなどで first American singer や American vocal artistsなどという表現が使用されるなど、「アメリカの歌手」として扱われていることが多い。


生涯

ジョージ・ロンドン、本名ジョージ・バーンスタイン(George Burnstein)は1920年5月30日、自治領カナダ、モントリオールに生まれる。両親、父ルイスと母ベータともにロシア帝国からアメリカに移民として渡り、1911年にアメリカの市民権を得ていた。ジョージはユダヤ系の子どもが通う学校で初等教育を受けた。ベータはジョージを溺愛する一方、父ルイスは健康がすぐれず、これに追い打ちをかけるようにウォール街大暴落に端を発する世界恐慌により、家の財政は破滅した。ルイスは医師から「カナダにとどまった場合は健康が保証できない」と忠告を受け、一家は1935年にカナダを離れてロサンゼルスに移り住むこととなった。

ジョージはハリウッドの高校を経てロサンゼルス・シティー・カレッジに進み、1942年にロサンゼルスでヴェルディ『椿姫』の医師グレンヴィルでアマチュアとしてのデビューを、1946年にヴェルディ『リゴレット』の表題役にプロとしてのデビューをそれぞれ飾る。同じ1946年にはヒンデミットの新作レクイエム『戸口に咲き残りのライラックが咲いた頃(英語版)』の世界初演にも参加。やがてコロムビア・アーティスト・マネジメント(英語版)のマネージャーであるアーサー・ジャドソン(英語版)に見いだされたジョージは、ソプラノ歌手フランシス・イーンド(英語版)、テノール歌手マリオ・ランツァとともに「ベルカント・トリオ」を結成する。1949年、ジョージは初めてヨーロッパの舞台に立ち、アン・デア・ウィーン劇場でのウィーン国立歌劇場公演でカール・ベーム指揮によるヴェルディ『アイーダ』でアモナズロを歌った。この公演はセンセーションを巻き起こし、1950年のエディンバラ国際フェスティバルへの出演および1951年から再開されたバイロイト音楽祭への出演は、後に続くアメリカ出身歌手へヨーロッパの舞台への道を切り開いた。1951年にはメトロポリタン歌劇場(メト)にアモナズロでデビューを飾り、同じ年にはベートーヴェン『フィデリオ』のドン・ピサロでスカラ座デビューを果たした。

1952年10月、ジョージはディミトリ・ミトロプーロスが指揮するニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の公演においてムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』の表題役・ボリスを歌う。翌1953年にはロンドンでもボリスを歌って成功をおさめ、ボリスは生涯の当たり役の一つとなった。ジョージはボリスをメトでも歌ったほか、1961年には冷戦下のソビエト連邦にわたり、ボリショイ劇場にて歌った。アメリカの歌手がボリショイ劇場を含めたロシアの劇場でボリスを歌うのは史上初めてのことであった。パリ、ブエノスアイレスの劇場のほか、1964年9月には東京オリンピック開幕を控えた日本を訪れ、岩城宏之指揮NHK交響楽団と共演し、得意のボリスのほかモーツァルト、ヴェルディ、ボロディンの作品のアリアを歌った。しかし、ジョージのキャリアは突然終わることとなった。1961年ごろから声帯に障害ができつつあることを自覚しており、ジョージはだましだまし歌い続けることを試みていた。障害は、具体的には声帯につながる神経のうちの一つが萎縮していたというものであった。1968年、ジョージはワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センター芸術監督に就任。これは同時に、歌手人生からの退場をも意味していた。ケネディ・センターでの職務を1971年まで務めたあと、国立オペラ研究所の監督を1971年から、ワシントン・ナショナル・オペラ(英語版)の芸術監督を1975年からそれぞれ務めて後進の指導やオペラ上演の監督を務めていた。ロサンゼルスとワシントンでオペラ上演を扱う興行会社の設立の話もあったが、1977年に心臓発作に見舞われた際に脳にも障害を負って話すことも書くことも不自由となり、1980年以降は一切の仕事から退いて自宅での介護生活を余儀なくされた。1981年、ケネディ・センターは慈善コンサートを開き、その収益をジョージの介護生活にかかる費用の足しとした。

1985年3月24日夜、ジョージ・ロンドンはニューヨーク州アーモンクで生涯を終えた。64歳没。その死は、アメリカのオペラ界の歴史における有望な音楽家の死と受け止められた。

芸術

ジョージ・ロンドンのレパートリーは幅広く、ボリス、アモナズロのほかにモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』の表題役、ワーグナー『パルジファル』のアンフォルタス、『さまよえるオランダ人』のオランダ人、『タンホイザー』のヴォルフラム、ビゼー『カルメン』のエスカミーリョ、プッチーニ『トスカ』のスカルピア、チャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』の表題役およびオッフェンバック『ホフマン物語』のコッペリウス、ダペルトゥット船長、ミラクル博士およびリンドルフなどがレパートリーの中核をなしていた。もっとも、善玉も悪役もしっかり歌い分けができることは、時には便利屋的な使われ方をされることもあった。ジョージが所属していた当時のデッカには、テノールにマリオ・デル=モナコ、ソプラノにレナータ・テバルディを擁していたが、バリトン部門はジョージやアルド・プロッティがいたもののEMIが擁していたティート・ゴッビのような存在感には欠けているとみられた。デッカは1959年にテバルディのトスカ、デル=モナコのカヴァラドッシ、そしてジョージのスカルピアという顔ぶれで『トスカ』を録音したが、評論家の黒田恭一はテバルディ、デル=モナコと顔合わせした時のジョージの歌声を「異質」と断じている。

歌手人生は短いものではあったが、その中には前述のボリショイ劇場におけるボリス公演のほかにも「記念碑的」な公演が多く含まれている。1950年4月6日と7日および9日、ニューヨーク・フィルはレオポルド・ストコフスキーの指揮でマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」の公演を行い、ジョージもソリストとして参加した。この公演はラジオ中継され、その音声をレコード化したものは、「千人の交響曲」の録音のうち最も古いものの一つに数えられている。また、リヒャルト・シュトラウス『アラベラ』は1955年にアメリカ初演されたが、ジョージはアメリカ初演の公演でマンドリーカを歌っている。ジョージはバイロイト音楽祭のほかにザルツブルク音楽祭にも出演歴があるが、モーツァルトの生地で開かれるフェスティヴァルで初めてモーツァルト作品の主役を歌ったアメリカ大陸出身の歌手としても記録されている。

ヨーロッパの舞台に初めて立った際、ウィーン国立歌劇場は第二次世界大戦末期の空襲で破壊されて再建途中であったが、1955年に再建がなって一連の記念公演が開かれた際にも呼ばれて、ドン・ジョヴァンニ、オネーギンおよびアモナズロを歌っている。

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