バス歌手: オットー・エーデルマン Otto Edelmann

オットー・エーデルマン(Otto Edelmann, 1917年2月5日 - 2003年5月14日)は、オーストリアの歌手(バス・バリトン)。

リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のオックス男爵、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロを得意とし、40を超えるレパートリーを駆使して国際的に活躍した。

生涯

オットー・エーデルマンは第一次世界大戦末期の1917年2月5日にオーストリア=ハンガリー帝国ニーダーエスターライヒ州ブリュン・アム・ゲビルゲで生まれる。幼少期から音楽的才能を発揮し、幼稚園の出し物で早くも歌を披露した。また、音楽のみならずスポーツ、特にボクシングを好み、幼少期のアイドルはジーン・タニーとジャック・デンプシーで、家の窓枠にその名前を刻むほどであった。11歳のときに初めてウィーン国立歌劇場でオペラを鑑賞し、その時の演目はレオンカヴァッロの『道化師』で、カニオを歌っていたのはレオ・スレザークあった。やがてエーデルマンはウィーン国立音楽アカデミーに入学し、テオドール・リアハンメルとギュンナー・グラールドの教えを受けた。1937年、エーデルマンは弱冠20歳でナチス・ドイツのテューリンゲン州ゲーラでモーツァルト『フィガロの結婚』に出演してデビューを飾る。翌1938年から1940年まではニュルンベルク歌劇場に所属し、モーツァルト『後宮からの誘拐』のオスミンやコルネリウス『バグダッドの理髪師』のアブドラ・ハッサンのほか、シュトラウスの『アラベラ』のヴァルトナー伯爵を作曲者自身の指揮で歌ったこともあった。しかし、時代はすでに第二次世界大戦に突入しており、エーデルマンも歌手としてのキャリアはドイツ国防軍による徴兵でいったん休止せざるを得ず、レンツブルグの高射砲部隊や独ソ戦の戦場などに赴く。やがてナチス・ドイツは崩壊してエーデルマンも赤軍の捕虜となり、リトアニアの収容所に送られた。

1947年秋、釈放されてオーストリアに戻ったエーデルマンは歌手活動を再開させる。ウィーン国立歌劇場は爆撃で崩壊しており、フォルクスオーパーとアン・デア・ウィーン劇場を仮住まいとして公演を継続していた時期にあたっていたが、エーデルマンはフォルクスオーパーで歌劇場のオーディションを受けて合格し、1947年11月30日にフォルクスオーパーでのウェーバー『魔弾の射手』の隠者で、ウィーン国立歌劇場所属歌手としてデビューを果たした。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヨーゼフ・クリップス、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュといった指揮者との共演を重ね、1951年には第二次世界大戦後初開催のバイロイト音楽祭に出演し、カラヤンの指揮で『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを初めて歌い、フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第9番(第九)のソリストも務めた。この1951年にはバイロイトのほかに、3月から4月にかけてフルトヴェングラー指揮のワーグナー『パルジファル』のアンフォルタスでスカラ座にデビューしている。翌1952年1月、エーデルマンはスカラ座におけるカラヤン指揮の『ばらの騎士』の公演で、初めてオックス男爵を歌う。夏にはバイロイト音楽祭に登場してクナッパーツブッシュ指揮により『マイスタージンガー』のハンス・ザックスを再び歌ったが、バイロイトへの出演はこの年限りとなった。バイロイトに引き続いてエディンバラ音楽祭にハンブルク州立歌劇場の引っ越し公演に客演という形で初登場し、レオポルト・ルートヴィヒの指揮でハンス・ザックスを歌った。

1953年、エーデルマンはザルツブルク音楽祭にデビューし、フルトヴェングラー指揮の『ドン・ジョヴァンニ』で初めてレポレロを歌う。翌1954年のザルツブルク音楽祭では、同じくフルトヴェングラーの指揮でレポレロと『魔弾』の隠者を歌い、前者はパウル・ツィンナーによる映画でその舞台姿を残した。この年、フルトヴェングラーとはルツェルン音楽祭での「第九」公演でも共演したが、フルトヴェングラーは11月30日に亡くなった。その直前の11月11日にはメトロポリタン歌劇場(メト)にデビューし、フリッツ・シュティードリーの指揮でハンス・ザックスを歌った。エーデルマンのレパートリーは広かったが、メトではドイツもののレパートリーに絞って活躍し、ハンス・ザックスやオックス男爵のほかに『指環』のヴォータン、『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王、『ローエングリン』のハインリヒといったワーグナー諸作品のほか、ベートーヴェン『フィデリオ』のロッコなどを歌っている。1960年のザルツブルク音楽祭、新たに祝祭大劇場がオープンし、こけら落としとしてカラヤン指揮の『ばらの騎士』が上演され、エーデルマンも得意のオックス男爵でオープンに花を添えた。この公演もツィンナーの手により映像化された。

オックス男爵の映像が残された1960年、エーデルマンはイルゼ・マリア・シュトラウブと結婚し、1962年6月15日に長男ペーター、1968年4月12日に次男パウル・アルミンが誕生し、ペーターとパウル・アルミンはともにバリトン歌手となった。子どもは3人で、ペーターとパウル・アルミンのほかに娘が一人いる。1960年代後半からはレパートリーと出番を徐々に絞るようになり、メトにおいてはハンス・ザックスとオックス男爵、ロッコのみを歌ったが、1969年以降はオックス男爵のみを歌うだけとなった。ウィーンにおいても1970年代には、フォルクスオーパーで上演されるオルフ『月』やロルツィング『ロシア皇帝と船大工』、ヨハン・シュトラウス2世『ウィーン気質』などの軽いオペラに出演するようになった。1976年4月7日、エーデルマンはジェームズ・レヴァイン指揮の『ばらの騎士』でオックス男爵を歌い、メトにおけるこの公演をオックス男爵の歌い納めとした。同じ年の12月16日、ウィーン国立歌劇場における『アラベラ』の公演でヴァルトナー伯爵を歌い、この公演を最後に現役を引退した。引退後はウィーン国立音楽大学で長年教鞭をとり、2003年5月14日にウィーン・リージング区カルクスブルクで86年の生涯を終えた。

レパートリー

当たり役は何といっても、1952年から引退する1976年までおよそ四半世紀かけて歌い続けてきた『ばらの騎士』のオックス男爵であり、初めて演じたスカラ座、ウィーン、メトのほか、1955年にはサンフランシスコ・オペラ、1964年にはグラインドボーン音楽祭で歌い、ザルツブルクにおいてもカラヤンのほか、1961年にカール・ベームの指揮でも歌っている。ツィンナーによる映画では、元帥夫人がエリーザベト・シュヴァルツコップ、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアンにアンネリーゼ・ローテンベルガーのゾフィーという配役で、このオペラ演奏の一つの頂点とされるものであり、ツィンナーによる映画はオペラ映画史を代表する名作として現在も親しまれている。1960年における実公演では元帥夫人は、一公演のみシュヴァルツコップが歌った以外はリーザ・デラ・カーザに代わっているが、その録音も公式発売されている。1954年のザルツブルク音楽祭でのツィンナーが撮影した『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロも記憶に残る歌唱と言えるが、エーデルマンが『ドン・ジョヴァンニ』を手掛けたのはオックス男爵と比較するときわめて少なく、フルトヴェングラー指揮による1953年、1954年のザルツブルク音楽祭でレポレロを歌ったほかは、1948年にブリュッセルでのウィーン国立歌劇場の引っ越し公演で騎士団長を歌っただけである。

オックス男爵、レポレロとならんでエーデルマンの主要なレパートリーは、ドイツ物では『マイスタージンガー』のハンス・ザックスおよびポーグナー、『ローエングリン』のハインリヒ、『パルジファル』のアンフォルタスとグルネマンツ、『アラベラ』のヴァルトナー伯爵、『魔弾』の隠者、『フィデリオ』のロッコ、ドン・ピサロおよびドン・フェルナンド、フロトー『マルタ』のプランケットなどが記録に残っており、ポーグナー、ドン・ピサロ、隠者とヴァルトナー伯爵は正規録音が残されている。ドイツ物以外ではヴェルディの『ドン・カルロ』のフィリッポ2世と『ファルスタッフ』のタイトル・ロール、スメタナ『売られた花嫁』のケツァル、グノー『ファウスト』のメフィストフェレス、ドニゼッティ『愛の妙薬』のドゥルカマーラなどを歌っている。ウィーン国立歌劇場所属歌手としては36の役柄で430公演に出演し、レパートリーの総計は40を優に超えていた。極めて珍しいレパートリーとしては、引退後の1983年にセゲド国民劇場(ハンガリー)の公演で歌ったシューベルト『魔法の竪琴』のフォルコ、リーノおよびアルフの3役がある。

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