ピアニスト: イーヴォ・ポゴレリチ Ivo Pogorelich

イーヴォ・ポゴレリチ(Ivo Pogorelich、1958年10月20日 - )は、クロアチアのクラシック音楽のピアニスト。「ポゴレリッチ」と表記されることもある。
イーヴォ・ポゴレリチ

略歴

ユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラード生まれ。22歳であった1980年に、師事していた43歳の女流ピアニスト、アリザ・ケゼラーゼ(英語版)と結婚したり、作曲家が弱音と指定している箇所を強打するなど、私生活・ピアノ演奏の双方で型破りなことで知られる。現在はスイスに在住。レパートリーはショパン、ラヴェル、シューマン、ベートーヴェン、リスト、スクリャービン、プロコフィエフ、バッハ、スカルラッティ等であり幅広い。現代音楽は一切手掛けないとしている。

出生からデビューまで

1958年、10月20日旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードにて、クロアチア人の父イヴァンとセルビア人の母ダリンカの間に生まれる[3]。父イヴァン・ポゴレリチはコントラバス奏者・指揮者。1970年、親元を離れ、単身、モスクワ中央音楽学校に留学し、寮生活を始める。同じくピアニストの弟ロヴロ・ポゴレリチが生まれる。1975年、中央音楽学校卒業、引き続きチャイコフスキー記念モスクワ音楽院に進学。エフゲニ・マリーニン、ヴェラ・ゴルノスターエヴァらに師事。このころから、生来の反骨精神から伝統に敢えて刃向かう演奏に傾倒し、教師たちとたびたび衝突、3度にわたって音楽院を退学処分寸前になる。派手な服装や目立つ言動のため、西側寄りの要注意学生として音楽院側から再三、忠告・指導を受ける。1976年、モスクワ市内の某科学者宅で開かれたパーティーで、グルジア(現・ジョージア)人ピアニストで著名な学者でもあったアリザ・ケゼラーゼに出会う。10月、ケゼラーゼから個人的にピアノの指導を受け始める。最初に取り組んだ曲はベートーヴェンのソナタ。ケゼラーゼとの出会いは、ポゴレリチの演奏家人生に大きな影響を与えた。

コンクールのヒーローとして

1978年、イタリア、モンテルニのアレッサンドロ・カサグランデ国際コンクール第一位。指揮者ダニエル・オレンとの共演でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を演奏。1980年、カナダ、モントリオール国際コンクール第一位。審査員の満場一致での優勝であった。1980年、ポーランド、第10回ショパン国際ピアノコンクールの本選落選、審査員特別賞受賞。これまでのショパン解釈からは到底考えられない彼の演奏は奇抜すぎるとする他審査員に対し、審査員の一人マルタ・アルゲリッチが「彼こそ天才よ」といい、その場から立ち去り抗議。審査員を辞任する騒ぎとなった。また、パウル・バドゥラ=スコダを始めとする他の数名の審査員は辞任はしなかったが、アルゲリッチに賛同の意見を述べた。なお、アルゲリッチがショパン国際ピアノコンクールの審査員に復帰したのはこの20年後、2000年である。この一連の出来事は「ポゴレリチ事件」と呼ばれるようになり、ショパン国際ピアノコンクールの歴史を語る上で避けられない出来事となった。またコンクール期間中にもかかわらず、審査委員長のコルド氏、落選者のポゴレリチの異例の記者会見がなされた。事態を重く見た審査員達は急遽ポゴレリチに審査員特別賞を与えることを決定。入賞はしなかったものの、一気にスターダムにのし上がった。ポゴレリチ本人は、この事件は自身の音楽的解釈ではなく、審査員同士の政治的要因によって引き起こされたと語っている。モントリオール国際コンクール優勝後、モスクワ音楽院のピアノ科主任であったドレンスキーから1980年のショパン国際ピアノコンクールを捨てる代わりに2年後のチャイコフスキー国際コンクールで第一位を取らせるという提案を受けたが、ポゴレリチがこれに従わなかったため一部の審査員は彼に点を入れなかった。コンクール後はドイツ・グラモフォンと契約、ショパンやラヴェルなどアルバムを多数リリースした。同年、アリザ・ケゼラーゼと結婚。

メジャーデビュー

ケゼラーゼ没後

1996年2月16日、妻のアリザ・ケゼラーゼが肝癌により死去。そのショックを受け、多くのリサイタルがキャンセルになる。ヨーロッパ、極東(中国・台湾・日本)を中心にコンサートを行っていた。

復帰

2016年現在、頻繁に来日してコンサートを行っている、近年は12月に来日する傾向がある。同年、第一回マンハッタン国際音楽コンクール(アメリカ)にて審査委員長を務める。グランプリ及びポゴレリチ賞をエマニュエル・リモルディが受賞。2019年、21年ぶりに新作アルバムをリリース。

評論家のレセプション

1980年、ワルシャワで開催された第10回国際ショパン国際ピアノコンクールの第3ラウンドでポゴレリッチが敗退し、審査員から物議を醸した意見が出されました。陪審員の一人であるマルタ・アルゲリッチは、彼を「天才」と宣言し、抗議して審査員を辞任した。他の2人の審査員は、「このようなアーティストが決勝に進出しないとは考えられない」と述べました。しかし、他の審査員は、ポゴレリッチの奇行と思われる点を不服として口にした。ユージン・リストは彼に非常に低いスコアを与え、「彼は音楽を尊重していません。彼は歪むほど極端な音を使用しています。そして彼はあまりにも多くの演技をします。」 ルイス・ケントナーは彼の自分の生徒が落選した後、「ポゴレリッチのような人々が第2ステージに進むなら、私は審査員の仕事に参加できません。私たちは異なる美的基準を持っています。」と述べて審査員を辞任した。 スキャンダルの宣伝はポゴレリッチがキャリアを始めるのを助けました。

ポゴレリッチのパフォーマンスはしばしば物議を醸しています。 彼の解釈はコンサートの聴衆に好評でしたが、批評家には必ずしも好評ではありませんでした。 イギリスの古典的なピアニスト、ピーター・ドノホーは、ポゴレリッチのキャリアを通じて批評家からの一連の「屈辱的な攻撃」に言及しました。 批評家は、彼のスターダムは、彼の才能ではなく、「彼の奇抜さに基づいたポップスタイルの宣伝のおかげ」であると述べました。。セルゲイ・プロコフィエフの第6ソナタの彼の最初の録音は、クラシック録音のペンギンガイドのロゼット賞を含む称賛を受けました。しかし、ニューヨーク・タイムズの批評家ハロルド・C・ショーンバーグベルクは、作曲のテンポが異常に遅いことでポゴレリッチを批判しました。 111ベートーヴェンのソナタ、そしてポゴレリッチは「ロマンチックなピアニストのグレン・グールドになろうと必死になっているようだ(グールドの奇行のいくつかはあるが、彼の特定の種類の天才はいない)」 20年後、別のニューヨークタイムズの評論家であるアンソニートマジーニが同じ作品のパフォーマンスをレビューし、次のように書いています「悲劇的に道に迷った巨大な才能がここにいます。何が悪かったのですか?」。

2015年の英国のコンサートシーンでの長い不在の後、ロイヤル・フェスティバル・ホールでのポゴレリッヒのリサイタルは批評家から広く批判されました。ガーディアンのために書いたアンドリュー・クレメンツは、彼のパフォーマンスを強く軽蔑しました。 レビューアは、彼のピアノ演奏を「非常に大音量で粗雑で、スタインウェイが彼の攻撃に耳を傾けていた」と批判しました。

語録

来日歴

Wikipedia

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