俳優・監督・作曲家:チャールズ・チャップリン Charles Chaplin

チャールズ・スペンサー・"チャーリー"・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。

サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者(英語版)」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。

チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー(英語版)劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社(英語版)、ファースト・ナショナル社(英語版)と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。1972年に第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞した。

『ライムライト』とアメリカ追放

『ライムライト』(1952年)で人気を失くした舞台芸人のカルヴェロを演じたチャップリン。
チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが、次回作の『ライムライト』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、1951年11月に撮影を始めた。チャップリンのパントマイムシーンの相手役にはバスター・キートンが出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった。

チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した。1952年9月17日、チャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した。その2日後、アメリカ合衆国司法長官のジェームズ・P・マクグラネリー(英語版)はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。

あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えてやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と。
チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けた。この事件はセンセーショナルに報道されたが[288]、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられた。アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされた。マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べている。

死去

1977年10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイのニー・サーカス(英語版)の見物に出かけたが、それがチャップリンの最後の外出となった。それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化した。12月25日のクリスマスの早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなった。その2日後にヴヴェイにあるアングリカン・チャーチの教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬された。チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せた。フランスのルネ・クレール監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べた。俳優のボブ・ホープは「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べた。

作風

影響

最初にチャップリンに影響を与えたのは、芸人である母のハンナだった。ハンナはよく窓際に座って通行人の真似をして、幼少期のチャップリンを楽しませた。これを通してチャップリンは、手ぶりや表情で自分の感情を表現する方法と、人間を観察して掘り下げる方法を学んだ。チャップリンはミュージック・ホールの舞台で活動し始めた頃、ダン・リーノ(英語版)などのコメディアンの芸を間近で見て学んだ。フレッド・カーノー劇団で過ごした日々は、俳優及び監督としてのチャップリンのキャリア形成に影響を与えた。チャップリンはカーノーからギャグのテンポを変えることや、ドタバタにペーソスを混ぜることを学んだ。映画業界からは、フランスの喜劇俳優マックス・ランデーの影響を受けており、チャップリンは彼の作品を賞賛した。小さな放浪者の扮装とキャラクターは、浮浪者のキャラクターがよく演じられていたアメリカのヴォードヴィルの舞台に触発されたと考えられている。

スタイルとテーマ

チャップリンのコメディ・スタイルは、スラップスティック(ドタバタ)と広く定義されているが、それは抑制された知的なものと見なされている[378]。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している。

チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して紳士として見られるように振舞う姿が描かれている。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている。

悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれるのである…笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。私たちは、自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない-笑わなければ気が違ってしまうだろう。
チャールズ・チャップリン、悲劇的な題材からコメディを作る理由について
ペーソスの導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た屠殺場から羊が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている。

社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた。また、『チャップリンの移民』では移民、『チャップリンの勇敢』では麻薬中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった。その後、チャップリンは経済学に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると[192]、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーとムッソリーニをパロディ化し、ナショナリズムに反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』ではマッカーシズムを攻撃した。

チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家スティーヴン・M・ワイスマン(英語版)は、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場するヒロインと、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している。

その他、チャップリンが晩年に製作を構想していた『フリーク』についてイタリアのチャップリン研究家チェチリア・チェンチャレーリは寛容がテーマであると述べている。また大野は1930年代中盤にチャップリンがバリ島を舞台にした長編映画『バリ』を構想していたこと、現存する二つのストーリーから現地の文化を深く学んでいたことを指摘し、多様な価値観を身に付けて作品に反映させ得たと述べている。

音楽

チャップリンは子供の頃から音楽を学び、チェロやバイオリンを猛練習したり、ピアノで即興演奏をしたりした。1916年にはチャップリン音楽会社を設立し、自分で作曲した3つの曲を出版した。1925年にも自作の曲を2つ出版し、エイブ・ライマン(英語版)のオーケストラでレコーディングした。そんなチャップリンはサイレント期から映画音楽の重要性を口にし、『キッド』以降は伴奏音楽を指示したキューシートを付けて配給した[407]。トーキーが出現すると、チャップリンは『街の灯』からのすべての作品で、自ら映画音楽を作曲した。1950年代以降にいくつかのサイレント映画を再公開した時も、自分で作曲した伴奏音楽を付けている。

チャップリンは正式な音楽教育を受けていたわけではないため、楽譜を読むことができず、スコアを作る時はデイヴィッド・ラクシン、レイモンド・ラッシュ(英語版)、エリック・ジェイムズなどのプロの作曲家の助けを必要とした。一部の批評家は、チャップリンの映画音楽の功績は一緒に働いた作曲家に与えられるべきだと主張したが、ラクシンはチャップリンの創造的な立場と作曲過程における大きな貢献を強調した。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたりハミングしたりして、それを作曲家が譜面に書き取るという形で進められ、満足するメロディになるまで何度もやり直しをした。チャップリンは作曲家に自分が求めるものを正確に説明したが、その際に「ここはワーグナー風でいこう」というように、作曲家の名前を挙げて表現することが多かった。

チャップリンは自らの作曲作品から、3つの人気曲を生み出した。『モダン・タイムス』のために作曲した「スマイル」は、1954年に作詞家のジョン・ターナー(英語版)とジェフリー・パーソンズ(英語版)により歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌唱でヒットした。『ライムライト』のために作曲した「テリーのテーマ」は、ジミー・ヤング(英語版)により「エターナリー」のタイトルで広まった。そして『伯爵夫人』のために作曲し、ペトゥラ・クラークが歌った劇中歌「This Is My Song」は、イギリスのシングルチャートで1位を獲得した。また、チャップリンは1973年に再公開された『ライムライト』で、第45回アカデミー賞の作曲賞を受賞した。

チャップリンと日本

受容

チャップリンが日本の映画雑誌で初めて紹介されたのは、『キネマ・レコード』の1914年7月号である。その記事でチャップリンは、特異な扮装と滑稽な歩き方から「変凹君(へんぺこくん)」と名付けられていた。同年から日本でチャップリン映画が公開され、すぐに高い人気を集めるようになり、当時は酔いどれ役のイメージから「アルコール先生」という愛称で呼ばれた。1916年から出演作は『チャップリンの~』の邦題で封切られ、正月とお盆にはチャップリンを中心に短編喜劇を集めた「ニコニコ大会」という上映会が日本各地で始まり、人気を不動のものとした。また、チャップリン人気により「チャップリン大会」が各地で封切られ盛況を呈した。

その人気ぶりに注目した映画会社の日活は、1917年に同社としては破格の金額でミューチュアル社と契約を結び、チャップリン映画の日本興行権を獲得した。チャップリン映画を得意とする活動弁士も現れ、その中でも大蔵貢はチャップリンの扮装をして映画説明をしたことから「チャップリン弁士」と呼ばれた。

笑いと涙を融合したチャップリン映画は、日本の大衆観客から人情喜劇として高い支持を受けた。大野裕之は当時の封切チラシから、日本人がチャップリン映画の中に「情」や「悲しみ」の要素を多く見出していると指摘している。それと同時にチャップリン映画の芸術性の高さも指摘され、インテリ層からも芸術家として支持された。芥川龍之介は「チャツプリン其他」「チャプリン」などでチャップリンについて言及している。

キネマ旬報ベスト・テンでは、1924年に『巴里の女性』が「芸術的に最も優れた映画」の1位に選ばれ、その後も1926年に『黄金狂時代』が「外国映画ベスト・テン」の1位に選ばれた(戦後も1952年に『殺人狂時代』、1960年に『独裁者』がそれぞれ1位に選ばれている)。

しかし、1920年代に左翼運動が高まる時代に入ると、社会風刺の強いチャップリンのイメージは変化し、危険なコメディアンという扱いを受けるようにもなった。芥川龍之介はチャップリンを社会主義者と見なし、甘粕事件を引き合いに出して「もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければならない」と述べている。

第二次世界大戦前に日本公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年公開)が最後となり、『独裁者』は完成当時(1940年)に日独伊三国同盟を結んでいたため輸入されなかった(20年後の1960年に初公開されると大ヒットした)。

戦後間もなくサウンド版(1942年)の『黄金狂時代』が公開された。『殺人狂時代』は1952年に公開されて、上述のとおり「外国映画ベスト・テン」1位となり、翌1953年公開の『ライムライト』も同第2位と高い評価を得ている。1954年には『モダンタイムス』が再公開された。

1972年には東宝東和が「ビバ! チャップリン」と題したリバイバル上映を行い、若者を中心に高い支持を集めた[474]。没後もリバイバル上映が行われ、2003年には日本ヘラルド映画により「Love Chaplin! チャップリン映画祭」と題して代表作12本が上映され[454]、2012年には「チャップリン・ザ・ルーツ」と題して初期作品63本のデジタルリマスター版が上映された。2006年には日本チャップリン協会が設立され、日本国内での上映会やシンポジウムなどの活動が行われている。

チャップリンは日本の作品や人物にも影響を与えている。チャップリンの模倣者や翻案作品は、大正時代から数多く登場している。その最初は『成金』(1921年)で、主演の中島好洋は自らを「日本チャップリン」と称した。日活の俳優の御子柴杜雄は、『娘やるなら学士様へ』『夢泥棒』(1926年)でチャップリンの扮装を真似した。『キッド』は野村芳亭監督の『地獄船』(1922年)で翻案されたのをはじめ、『小さき者の楽園』(1924年)や『父』(1929年)など多くの影響作品を生み、『街の灯』は木村錦花脚色で『蝙蝠の安さん』(1931年)として歌舞伎化された。宝塚少女歌劇ではチャップリンの扮装で登場する『チャップリンの空中飛行』(1931年6月花組公演。平井房人・宇津秀男 作、森完二 作曲)を上演した。喜劇映画監督の斎藤寅次郎は、チャップリンをパロディ化した『チャップリンよなぜ泣くか』(1932年)を作り、主演の小倉繁は「和製チャップリン」と呼ばれた[481]。また、漫画家の手塚治虫とお笑い芸人の太田光は、チャップリン映画から影響を受けていることを明らかにしている。さらに、漫才師の日本チャップリン・梅廼家ウグイスや声優の茶風林のように、チャップリンに因んだ芸名を付けた芸能人もいる。

日本人の使用人

チャップリンは自宅の使用人に、何人もの日本人を雇い入れていた。とくに知られているのが、1916年に運転手として雇われた高野虎市である。チャップリンは高野の誠実な仕事ぶりを評価し、やがて運転手だけでなく経理を含めた個人秘書の役割も任せるようになった。高野に厚い信頼を寄せたチャップリンは、彼の仕事ぶりから日本人の使用人を好むようになり、何人もの日本人を次々に雇い入れた。例えば、ハワイ出身の日系二世のフランク・ヨネモリやヒロサワ、運転手のヤマモトである。1926年頃にはチャップリン家の使用人は全員日本人となり、当時の妻のリタ・グレイは「日本人のなかで暮らしているようだった」と回想している。1934年に高野はポーレット・ゴダードと衝突したため辞任し、フランク・ヨネモリが秘書に昇格した[489]。しかし、1941年12月の真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、日本人の使用人は強制収容所に収容された。そのためチャップリンは新たにイギリス人の使用人を雇い入れたが、日本人の迅速で能率的な仕事ぶりに慣れていたため、イギリス人の仕事ぶりはうんざりするほどのろく感じたという。

4度の訪日

チャップリンは小泉八雲の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した。初訪日したのは1932年5月であるが、この時にチャップリンは犬養毅首相が暗殺された五・一五事件に遭遇した[492]。首謀者の海軍青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた。首謀者のひとりの古賀清志は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた。

5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と神戸港に到着し、数万人の人々に出迎えられた。一行は東京に向かったが、東京駅では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に東京日日新聞はその混乱ぶりを「関東大震災当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた。チャップリンは宿泊先の帝国ホテルに向かう途中、同行した高野に頼まれて皇居に遥拝した。これは軍国主義が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる首相官邸での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して両国国技館で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た。チャップリンは犬養の逝去に対し弔電を送っている。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの古典芸能を鑑賞したり、上野の美術館で浮世絵を楽しんだりして過ごした。歌舞伎座で初代中村吉右衛門と対面、また新橋演舞場では曾我廼家五郎と対面し「東西喜劇王の対面」と報じられた。また、チャップリンは滞在中に何度も天ぷらを食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された。また「刑務所を見ればその国のことが分かる」との持論から小菅刑務所を見学した[504]。チャップリンは初訪日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている。なお、永井荷風は日記「断腸亭日乗」に神代種亮から聞いた話としてチャップリンが銀座の女給と昵懇となったとの風聞を記述している。

1936年3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が神戸港に停泊した一日半を利用して再訪日した。このときは円タクで神戸を周遊し湊川公園にも立ち寄った。神戸港の船上では淀川長治と面会している。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の訪日を果たし、銀座や京都を観光したり、岐阜の鵜飼を見物したりして6日間滞在した[510]。このとき七代目松本幸四郎と対面している。

1961年7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の訪日を果たした。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、高度経済成長で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、龍安寺ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ。京都見物の途中に銭湯に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った。南座では人形浄瑠璃の4世吉田文五郎と面会した。

フィルモグラフィー

チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在するが、それ以外にも未完成及び未公開の作品、再編集して公開された作品、カメオ出演した他監督の作品がある。2020年時点でアメリカ国立フィルム登録簿には、『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)、『チャップリンの移民』(1917年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)、『独裁者』(1940年)の7本の公式映画と、カメオ出演したキング・ヴィダー監督の『活動役者(英語版)』(1928年)が登録されている。

監督した長編映画

受賞

チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。1962年にオックスフォード大学とダラム大学から名誉博士号を与えられ、1965年にはイングマール・ベルイマンとともにエラスムス賞を受賞した。1971年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられ、1975年にはエリザベス2世から大英帝国勲章のナイト・コマンダー(英語版)(KBE)の称号を与えられた。映画業界からは、1957年に映画芸術への顕著な貢献に対してジョージ・イーストマン賞(英語版)を受賞し、1971年の第25回カンヌ国際映画祭ではチャップリンの全作品に対して特別賞を贈られ、1972年のヴェネツィア国際映画祭では栄誉金獅子賞を受賞した。同年にリンカーン・センター映画協会から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている。また、1972年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた。

Wikipedia

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