NBC交響楽団 NBC Symphony Orchestra

NBC交響楽団(The NBC Symphony Orchestra)は、アメリカに1937年から1954年までの間存在したオーケストラである。

その後継団体シンフォニー・オブ・ジ・エア(The Symphony of the Air)は1963年まで活動を継続した。20世紀の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの演奏をラジオ放送することを主目的に編成され、彼のタクトのもと、多くの録音を残したことで著名である。

歴史

交響楽団の出発

1937年2月5日にこの新オーケストラ「NBC交響楽団」(the National Broadcasting Company's Symphony Orchestra)の創設がサーノフ、トスカニーニの連名で正式発表された。正式契約ではトスカニーニは演奏曲目、ソロイスト、合唱団、客演指揮者の選択、オーケストラ楽団員の人事権などに関して最終的な権限を持つこととされており、NBC交響楽団はまさに「トスカニーニのオーケストラ」としてスタートすることになった。彼はまたその際、オーケストラ団員の選抜ならびに訓練のために、当時クリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務めていたアルトゥール・ロジンスキとの契約を要求し、容れられている。トスカニーニはザルツブルク音楽祭での客演時にロジンスキを深く知り、その手腕に信頼を置くようになったと考えられている。
ロジンスキの監督下、団員のオーディションは急ピッチで進んだ。参加申込みは全米のみならず、欧州各国からも積極的だった。大恐慌の影響で他のオーケストラの給与水準が必ずしも満足行くものでなかったこと、緊迫化するヨーロッパの政治情勢からの逃避の動き、といった外的条件がNBC響の編成を後押ししていた。最終的には92人の楽団員が雇用された。うち31人はNBC局内の既存オーケストラから、61人は外部からで、特に管楽器では米国内の他有名オーケストラからの引き抜きが多かったようである。
1937年11月2日には早くもオーケストラの初コンサートが「ドレス・リハーサル」と銘打って放送されている。この時トスカニーニはまだ米国に戻っておらず、指揮はロジンスキであった。曲目はウェーバー『オベロン』序曲、そしてリヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』である。
もっとも、ロジンスキによるこの訓練期間は問題も多かった。彼は楽団員との不必要とも思える衝突を繰り返したのである。ロジンスキはこの時45歳、もともと不安定で怒りっぽい性格であり、また大指揮者トスカニーニが戻ってくるまでの短い期間にオーケストラを全米屈指の水準にまで仕上げなければならない、という義務観が彼をさらに不安にしたと考えられている。結局親会社NBCは、トスカニーニのデビュー日までをすべてロジンスキの指揮で演奏、放送するという当初計画を変更、急遽ピエール・モントゥーにいくつかのコンサートを任せている。ちなみに、ロジンスキはスラヴ系オーストリア人、モントゥーはトスカニーニと世代の近いフランス人であり、同団は多様な三人のもとで初期の形を整えることができた。

トスカニーニの初指揮

トスカニーニのNBC響への初御目見えは1937年のクリスマス、12月25日であった。曲目はヴィヴァルディ『調和の霊感』より第11番、モーツァルトの交響曲第40番、そしてブラームスの交響曲第1番であった。
初シーズンでトスカニーニは10週にわたり10コンサートを指揮、放送する契約だったが、放送が好評だったこと、トスカニーニ自身もNBC響の出来に満足だったこともあり、さらに1コンサートが追加された。加えて数回の慈善コンサートが放送なしで行われた。

その後の関係

トスカニーニとNBC響との関係は概して良好だったが、17年の間に危機がなかったわけではない。
トスカニーニは楽団員のレベルが低いと考えた場合、情け容赦なく退団を命じた。また、リハーサル中不満があるとイタリア語で悪態をつき中断することもしばしばで、それは一種の恐怖政治だったことは間違いない。もっともこれはNBC響に対してのみでなく、スカラ座、ニューヨーク・フィルなどの前任地、また客演時も同様であった。

最大の危機は1941年から1942年のシーズンに訪れた。1940年冬頃、NBCに対する不信感を決定的にする出来事が起き、NBC側から辞任を促されたトスカニーニは1941年春にNBC響を辞任した。NBCは、レオポルド・ストコフスキーを常任に据えた。

トスカニーニがNBC響の何に不満だったのか、正確なところはわかっていない。契約上はトスカニーニが全権を掌握することになっていたにもかかわらず、面従腹背状態の親会社NBCの彼の意に反する人事、(客演指揮者による)コンサートを行ったためとの説、ヨーロッパでの戦乱がトスカニーニを不安に陥れていたためとの説などがある。

皮肉なことに、トスカニーニとNBC響を再び結びつけたのはこの戦争であった。1941年12月6日、米国の参戦直前に彼は「防衛国債(defence bonds)」購入を呼びかける財務省主催の慈善コンサートのため、(渋々)NBC響の指揮を行っている。そして米国参戦後には「客演指揮者」として大々的に復帰し、いつの間にか彼と交響楽団との関係は元に戻ったのである。1942年から1943年のシーズンからはストコフスキーと並んで常任指揮者の地位に復帰、ストコフスキーが去った1944年から1945年のシーズンからは再び単独の常任指揮者として君臨する。
この間、1942年にはショスタコーヴィチの交響曲第7番をどちらがアメリカ初演するかを巡って、ストコフスキーと激しく争っている。最終的にその栄誉はトスカニーニの手中に落ち、同年7月19日にそれはスタジオから全米、ならびに短波でヨーロッパに向けて放送された。
大戦終了後のトスカニーニは、再興なったスカラ座などヨーロッパへの客演も再開したが、活動の中心は常にNBC響であった。1950年4月からは、専用列車を仕立て2か月で22都市を巡る大々的な全米ツアーも挙行され、大成功している。

トスカニーニの引退

しかしトスカニーニは、次第に自らの衰えを意識するようになる。記憶力の衰えにより(トスカニーニは視力に問題があり、暗譜での指揮を信条としていた)、リハーサル中に自らの勘違いから激怒してしまう、本番中に集中力が途切れ演奏が乱れる、などの事態が発生する。ただ、トスカニーニの引退を妨げていたものは、NBC響との強い結びつきだったのも確かである。仮に彼が指揮台を去ればNBC響はその存在意義を失い、解散させられるのは彼の目にも明らかだった可能性もある。
最終的にトスカニーニは、87歳を迎えた1954年3月25日付のRCA社会長サーノフ宛の手紙で引退を表明した。4月4日が最終のコンサートとなった。同夜は当初ブラームスの『ドイツ・レクイエム』の予定だったが、集中力を維持できないと感じたトスカニーニにより、ワーグナー作品のみのプログラムに差し替えられた。引退の事実の公表はそれまで差し控えられ、放送終了後にNBCのニュース速報が伝えた。
同夜のトスカニーニは感情の昂ぶりからか集中を欠いていたとも言われており、『タンホイザー』の「序曲とバッカナーレ」では指揮を中断してしまい演奏を混乱させた。その際、中継放送は「技術上の障害」としてブラームスの交響曲第1番の録音を流した。さらに、プログラム最終に『マイスタージンガー』前奏曲を奏する必要があるのを忘れて退場しようとしてしまい、楽団員に呼び止められたとする説もある。放送は午後7時45分、ナレーターの「我々はマエストロ・トスカニーニが再び登場してくれることを期待するものです」とのコメントで終了した。
トスカニーニは同年6月、『仮面舞踏会』『アイーダ』の録り直しのために計6時間NBC響の指揮を行い、それが生涯最後のタクトとなった。

トスカニーニの録音・映像記録

1937年当時トスカニーニの録音は意外と少なかった。彼はミラノ・スカラ座の音楽監督(1898年-1903年、1906年-1908年、1921年-1929年)、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の首席指揮者(1908年-1915年)、ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者(1926年-1936年)の要職を歴任、その他客演としてはバイロイト音楽祭(1930年-1931年)、ザルツブルク音楽祭(1935年-1937年)でもタクトを振るっているが、これら共演の録音はそれほど多くない上に、概して音質は良好ではなかった。
これに対して、NBC交響楽団との17年の共演は作曲家総数107に及び、ヴィヴァルディからバーバーの最新作『弦楽のためのアダージョ』(1938年11月5日、トスカニーニとNBC響の放送が世界初演)に至るまでのトスカニーニの主要レパートリーを網羅しており、音質的にも愛聴に耐えるレベルである。彼のレパートリーのもう一つの柱であったオペラでは演奏会形式での少数の録音しかない、という欠点はあるものの、トスカニーニを知るにはこのNBC響との録音は避けて通れない一級資料である。
またNBC響は、トスカニーニの映像記録も残した。1948年3月20日午後6時30分からNBCが公演をテレビ生中継したのがその最初である。実はこの時NBCは「世界初のコンサート・ライブ中継」を企てていたが、ライヴァル局CBSがそれを出し抜き、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団のライブを同日午後5時から放映したことで、世界初の栄冠は逸している。最終的には9回のコンサートが生中継され、劣悪な画質、カメラ・アングルの稚拙さがみられるものの、それらはトスカニーニの指揮ぶりを知る数少ない資料のひとつとなっている。

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