指揮者: クリスティアン・ティーレマン Christian Thielemann

クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann, 1959年4月1日 - )は、ドイツベルリン出身の指揮者である。
クリスティアン・ティーレマン

概要

歌劇場コレペティートアとして経験を積んだのち、1988年から1992年までニュルンベルク州立劇場、1997年から2004年までベルリン・ドイツ・オペラ、2004年から2011年までミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督をそれぞれ務めた。2012年にシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任。その他、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などへ定期的に客演し、またバイロイト音楽祭やウィーン国立歌劇場で活躍するなど、コンサートとオペラ両面にて評価を得ている。
レパートリーとしては、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナーの作品を中心として、ドイツ・オーストリア系の古典派、ロマン派から20世紀初頭までの曲を得意としている。

経歴

出生からデビューまで

音楽好きの両親のもとベルリンで生まれたティーレマンは、幼時より両親に連れられて室内楽やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に通い、自らも5歳でピアノ、7歳でヴィオラを始め、後にピアノをベルリン音楽大学学長のヘルムート・ロロフに師事、カラヤン財団のオーケストラ・アカデミーに入った後はベルリン・フィルの中で当時の首席ヴィオラ奏者ジュスト・カッポーネからヴィオラとヴァイオリンを学び、これらの演奏で数多くの賞を受賞している。また、並行して、かつてブルーノ・ワルターが学んだことでも知られるベルリンのシュテルン音楽院にて指揮や作曲などの個人レッスンも受けていた。 そして、 ベルリン・ドイツ・オペラの練習指揮者であったハンス・ヒルスドルフからピアノスコアの弾き方を学んだ後、当時、同歌劇場の事実上の常任指揮者であったハインリヒ・ホルライザーに認められ、1978年、19歳でベルリン・ドイツ・オペラのコレペティートアに採用された。ホルライザーのアシスタントとなり、本格的に指揮者としての道を歩み始めたティーレマンであったが、そもそもティーレマンが指揮者となることを決意したのは、前述のような音楽学生時代を過ごす中で、ベルリン・ドイツ・オペラにて上演されたホルライザー指揮、ヴィーラント・ワーグナー演出による、リヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を見たことであったという。
コレペティートアとして働くようになってからは、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの交流も深まり、ベルリン・フィルの本拠地であるベルリン・フィルハーモニーとベルリン・ドイツ・オペラを行き来したり、ザルツブルク復活祭音楽祭への参加をはじめとして、彼らの演奏旅行に同行したりしながら、オペラとオーケストラ両面の研鑽を積むこととなる。1980年には、カラヤンが弾き振りするブランデンブルク協奏曲のチェンバリストとして”ベルリン・フィルデビュー”も飾っている。
また、当時ベルリン・ドイツ・オペラに客演していたダニエル・バレンボイムのアシスタントも務め、その縁でパリをはじめとする各地での演奏会やバイロイト音楽祭(1981年、ジャン=ピエール・ポネル新演出によるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』)においても筆頭助手として活躍した。バイロイト音楽祭への参加をきっかけとして、ホルスト・シュタインからアドバイスを受ける機会も得ているが、後にティーレマンは、ホルライザーとともに自分を一番可愛がってくれたのはシュタインであると語り、シュタインをカラヤンと同列の指揮者として挙げている。
その後、1982年よりゲルゼンキルヒェン音楽歌劇場の指揮者兼コレペティートア、カールスルーエ・バーデン州立劇場、ハノーファーのニーダーザクセン州立劇場にて経験を積んだ。そして、1985年にデュッセルドルフのデュッセルドルフ・ライン歌劇場の主席指揮者としてキャリアをスタート、1988年にはニュルンベルク州立劇場の音楽総監督に就任した。これは当時ドイツ国内では最年少の音楽総監督であった。
この間、1983年にはイタリアの名門フェニーチェ劇場において、ワーグナー没後100年を記念した『パルジファル』を指揮し、好評を得た。1987年には、ウィーン国立歌劇場へモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮してデビューし、続けてモーツァルトの『フィガロの結婚』やヴェルディの『椿姫』などを10回指揮したものの、この時は人気を得るには至らず、以降しばらく遠ざかることになるという苦い経験も有している。

シュターツカペレ・ドレスデンと今後の活動

今後、ティーレマンは2012年のシーズンより7年間の契約で、チューリヒ歌劇場に転出するファビオ・ルイージの後任として、シュターツカペレ・ドレスデン(以下SKD)の首席指揮者に就任する予定となっている。2009年9月の定期演奏会をルイージが病気キャンセルした際、ティーレマンがその代役としてブルックナーの交響曲第8番を指揮し、それをきっかけとして、かねてよりルイージの後任を探していたドレスデンとの交渉が急速にまとまったのである。
ただし、ルイージは、同楽団が行う2010年ジルベスター・コンサートの指揮者にティーレマンが指名されたことを理由として、任期満了を待たずに一方的に契約を解除している。もっとも、ルイージの辞任に関しては、この件のみが原因ではなく、もともとのSKDとの関係悪化が原因であるとの意見がある。 ティーレマンは、ルイージが辞任したことによって音楽総監督・首席指揮者が欠けた穴を埋めるべく、首席指揮者就任に先んじて事態の収拾に努めている。

SKDのジルベスター・コンサートがZDFによって放送されるのは2010年が初めてのことであるが、その生中継は同日の同じ時間にARDによって生中継されたグスターボ・ドゥダメル指揮ベルリン・フィルによるジルベスター・コンサートの視聴率を上回り、早くもティーレマンとSKDの人気の高さを見せつけることとなった。また、このコンサートの模様を収めたCD・DVDはドイツ・グラモフォンよりスピード・リリースされた。

ドレスデンにおけるポストは、まずはザクセン州立ドレスデン歌劇場の専属管弦楽団であるシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者にとどまるが、発表された活動内容によるとオペラ上演にも多く関わる模様である。同楽団には2003年に初登場して以来、これまでも度々客演しており、ほとんどの楽団メンバーとはバイロイト音楽祭でも共演しているため、この組み合わせによる今後の活躍が期待されている。
加えて、2013年からは、ザルツブルク復活祭音楽祭の芸術監督に就任し、SKDとともに同音楽祭に出演することが決まっている。この音楽祭は、カラヤンが故郷ザルツブルクにおいて、ベルリン・フィルを起用しオペラ上演を行うことを目的として創設したものであり、カラヤン死後も基本的にベルリン・フィルとその歴代音楽監督によって引き継がれてきた。しかし、2011年、サイモン・ラトルおよびベルリン・フィルはザルツブルクからの撤退を一方的に通告し、契約を打ち切ったのである。その後任として、ティーレマンおよびSKDが選ばれたのであった。

来日歴

ティーレマンが初めて日本の土を踏んだのは、ギムナジウム(日本の中学校・高等学校に相当する)卒業直後、観光旅行のために訪れたときであったという。

指揮者としての来日は、レナード・バーンスタインの提唱で始まったパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)にレジデント・オーケストラとして参加するため初来日したローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団に同行したときが初めてである。1993年7月、PMFにおいて同オーケストラを指揮してシューマンの交響曲第4番、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のアリアとベートーヴェンのコンサート・アリア(ソプラノ:佐藤しのぶ)といったプログラム、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:マッシモ・クァルタ)及びブラームスの交響曲第1番というプログラムを演奏、東京でも同様のプログラムで演奏会が行われた。

同年9月から10月には、ベルリン・ドイツ・オペラの日本公演に、ハインリヒ・ホルライザーや当時の音楽監督ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスらに同行して来日、この時はワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 『トリスタンとイゾルデ』 『ローエングリン』とベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団のオーケストラ・コンサートが行われたが、そのうちティーレマンは『ローエングリン』の指揮を担当した。

その後1998年1月から2月にかけ、ベルリン・ドイツ・オペラの新たな音楽監督として同劇歌場を率いて日本公演を行い、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』 『タンホイザー』、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』の公演のうち、ワーグナーの2つの楽劇を指揮。ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団のオーケストラ・コンサートでは、リヒャルト・シュトラウスの『日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:エリザベス・グラス)、ブラームスの交響曲第1番というプログラムを演奏した。また、ベルント・ヴァイクルらを迎えた「ワーグナー・ガラ」コンサートを行った。

2003年11月にはヴォルフガング・サヴァリッシュとともにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日し、それぞれが数公演ずつ担当する予定であった。しかし、来日直前にサヴァリッシュが病気キャンセルした結果、プログラムを一部変更の上でティーレマンの指揮により日本演奏旅行が行われることとなった。この時は、リヒャルト・シュトラウスの歌曲(バリトン:トーマス・ハンプソン)、ブラームスの交響曲第1番というプログラム、ベートーヴェンの交響曲第6番、リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』というプログラム、ワーグナーの管弦楽曲、ブルックナーの交響曲第7番というプログラムを演奏した。

2007年11月にはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督に就任後初めての日本演奏旅行を行ない、ブルックナーの交響曲第5番という1曲だけのプログラム、リヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』 『死と変容』、ブラームスの交響曲第1番というプログラムを演奏した。2度目となる2010年3月の日本演奏旅行ではブルックナーの交響曲第8番という1曲だけのプログラム、ワーグナーの管弦楽曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:ヴァディム・レーピン)、ベートーヴェンの交響曲第5番というプログラムを演奏した。

2012年10月に首席指揮者としてシュターツカペレ・ドレスデンを率いての日本演奏旅行をおこなった。2013年には再びウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日した。

その他、2003年以降にベルリン・ドイツ・オペラやフィルハーモニア管弦楽団、ウィーン国立歌劇場の日本公演に同行する予定であったが、いずれも実現しなかった。

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