指揮者:ゲオルク・ショルティ Georg Solti

サー・ゲオルク・ショルティKBE(Sir Georg Solti, KBE, 1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系。

人物・来歴

ハンガリーのブダペスト生まれ。シュテルン家の次男として生まれ、生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ(Stern Gyorgy )。父親はシュテルン・モーリツ (Stern Moric)、母親はローゼンバウム・テレーズ (Rosenbaum Terez)。写真家のモホリ=ナジ・ラースローは再従兄弟にあたる。また作曲家のジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、子供らの将来のためにユダヤ的なシュテルンという姓をハンガリー風のショルティに改姓した。

6歳でピアノを習い始める。その後1924年に、リスト音楽院でヴェイネル、バルトーク、コダーイ、ドホナーニらに指導を受け、ピアノ、作曲、指揮なども学んでいる。13歳の時、コンサートで聞いたエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン・交響曲第5番の演奏に感動して指揮者を目指すこととなる。
1930年 - リスト音楽院を卒業するとブダペストの国立歌劇場でコレペティトール(歌手の練習のためのピアニスト)に採用され、チェレスタやチェンバロなどの楽器の演奏も手がけるなど、努力の日々を送りながらオペラを学ぶ。 1936年 - コレペティトールとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがトスカニーニの目にとまり、同年と翌年のザルツブルク音楽祭のトスカニーニの助手を務めることとなる。1937年には「魔笛」の公演でグロッケンシュピールを担当した。 1938年3月11日-ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者デビュー。ぶっつけ本番であった(同日、ナチス・ドイツによるオーストリア併合)。この年、ヘトヴィヒ・エークスリ(ヘディ)と結婚。
1942年 - ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し(審査員にはヴィルヘルム・バックハウスやフランク・マルタンがいた)、その後ピアニストとしてデビューする。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。
1946年 - 戦後、7年ぶりにたった2度ほど「フィデリオ」を指揮した後、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に抜擢される(本人は、これにはトスカニーニとエーリッヒ・クライバーの援助があったと語っている。また、非ナチ化の影響で多くのドイツ人指揮者が失脚していたという幸運もあった)。
1947年 - スイスのテノール歌手リヒテクの推薦で、ピアニストとして英デッカと契約を結び、録音活動もスタートしている。
1949年 - リヒャルト・シュトラウスと会う機会を得て、指導を受けている。
1952年 - フランクフルト市立歌劇場の音楽監督に就任する( - 1961年)。
1953年 - サンフランシスコ歌劇場にて「エレクトラ」の指揮でアメリカデビュー。後に音楽監督として緊密な関係を築くシカゴ交響楽団の初指揮は、1954年夏のラヴィニア音楽祭で果たしている。1958年から始まったウィーン・フィルとの「ニーベルングの指環」全曲スタジオ録音で、指揮者としての評価を国際的に著しく高める(世界初全曲録音)。
1959年 - 「ばらの騎士」でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任( - 1971年)。
1967年 - BBCの記者ヴァレリー・ピッツと再婚。
1969年 - シカゴ交響楽団の音楽監督に就任すると、やや停滞が伝えられていたこのオーケストラを数年で立て直し、その活躍はめざましいものとなる。シカゴ響初の海外公演を成功させる。
1972年 - イギリス国籍を得て帰化し、ナイトの称号を授与される。1983年 - バイロイト音楽祭に出演し、「ニーベルングの指環」を指揮するが、バイロイト登場はこの年限りに終わった。
1991年 - シカゴ交響楽団の音楽監督を辞すと、桂冠指揮者として死の直前までシカゴ交響楽団を中心に幅広い指揮活動を続けた。
1995年 - ジュネーブで開催された「国連50周年記念演奏会」にて、世界各地のオーケストラに所属する40カ国余り81人の演奏家から編成される「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」による初演を成功させ、3年越しの構想を実現させた。
1997年9月5日 - 南フランスのアンティーブで自伝の最終チェックを終えた直後、その波乱万丈の生涯を終えた。敬愛するバルトークの墓の隣で眠りについている。

演奏スタイル

シカゴ交響楽団と録音したバルトークの「管弦楽のための協奏曲」やマーラーの交響曲などに表れているように、とにかく楽器を良く鳴らし、オーケストラのダイナミックレンジと機動力を最大限に利用したような指揮は、ショルティの指揮スタイルのひとつである。リズムの正確さ、鋭敏さも大きな特徴である(モーツァルトのオペラにおいて顕著)。シカゴ交響楽団でショルティが作った響きは、ウィーン・フィルのしっとりした響きよりはややドライな弦楽器、躍動的かつ長い息で吹き切る木管・金管楽器による「明晰さとバランスを重視」(本人談)している。

トップオーケストラほど(ヨーロッパで特に顕著に)、指揮者が指揮棒を振るのと実際の演奏の音の出る間に長いタイムラグが生ずると言われる。ショルティはこれを嫌い、なるべく指揮棒を振り下ろした瞬間に音を出すよう依頼した。そのため、伝統を重んじるウィーン・フィルとはしばしば衝突を起こしたという。日本においては、ショルティの得意としたオペラが欧米ほど盛んでないことや、多くの音楽評論家による否定的な批評のため、今一つ評価が高くない。

レパートリー

ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスをはじめとするオペラの指揮者としても著名な一方、オーケストラとの演奏・録音活動も幅広いレパートリーをこなしている。ハイドン、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどは賛否両論あるが、一定の評価を得ているといえる。それらの業績に加え、ワーグナー、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウスの演奏を加えると、同世代のヘルベルト・フォン・カラヤンと比べても、ドイツ圏の音楽が遥かに高い比重を占めている。例えば、モーツァルトからシュトラウスに至るドイツオペラの録音を、ショルティほど体系的かつ大量に残した指揮者は珍しい。

いわゆる「ドイツ物」の他には、ヴェルディの作品を得意とした。ビゼーの「カルメン」も十八番のひとつである(戦後のミュンヘンを熱狂させた)。ドビュッシーの音楽も好み、「牧神の午後への前奏曲」や「夜想曲 (ドビュッシー)」より『祭』などは演奏旅行でのプログラムやアンコールでよく取り上げていた(首席フルート奏者を務めたドナルド・ペックがその著書の中で「自分ほど『牧神』を演奏したオーケストラ奏者はいないと思う」と回想している)。ヨハン・シュトラウスはほとんど取り上げないが、スッペは2度も序曲集を録音しているあたりも彼らしい特徴である。

楽譜に対しては作曲家の意図にこだわり、プラスアルファの解釈を強調しない指揮者であった。ベートーヴェンやブラームスの交響曲の演奏では、通常は省略されることの多い提示部の繰り返しをきちんと行ったり、バランス上問題があるとされることの多い箇所でも楽譜通りのオーケストレーションで演奏させることでも知られる。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の第1楽章にはファゴットのパートをバス・クラリネットに吹かせることが慣習化している箇所があるが、少なくとも残された録音では、ショルティはここも楽譜通りファゴットに吹かせている。また、ウィーン・フィル及びプラシド・ドミンゴらと録音したリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」は、サヴァリッシュ&バイエルン放送交響楽団盤(EMI)に次ぐノーカット・完全全曲版である。

平和への祈り

ショルティは、1938年3月11日、ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者としてのデビューを飾ったが、ユダヤ系だったこともあって、再び指揮台に立つ機会はなかった。歌劇場の後援会長からルツェルン音楽祭に参加しているトスカニーニを頼ってニューヨークへ渡ることを勧められ、ルツェルンでトスカニーニに約束まではもらえたが、戦争が始まってしまったことと、トスカニーニ夫人から貰った所持金が底をついてしまったことなどから実際にはかなえられず、そのままスイスで生活を送ることとなる。以後、戦争が終わるまでは家族(父親は1943年に病死している)と再会していない。青年期が第二次世界大戦の真っ只中と重なり、またユダヤ系であることから、ショルティの生涯は戦争に翻弄され続けた。この経験から、政治家もまた、音楽家と同様に思想の違いを超えて平和を実現することが必ずできるはずだという信念を抱き、1992年にバッキンガム宮殿にてチャールズ王太子とダイアナ妃の主催で開かれたショルティ80歳記念演奏会の場で、「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化する「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」の構想を発表した。

エピソード

戦後は自身の名前(Georg)をドイツ風で通し、1972年までドイツ国籍を持っていたショルティは、イギリスに帰化したのちも「ドイツ語が、思い通りのことを一番うまく言える言語」「マジャール語は忘れてしまった」として、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンを原書で愛読する生活を送っている(ただし、大陸ヨーロッパの人名も英語読みすることが多い英米人は、綴りが違うにもかかわらず、例えばBBC Pronouncing Dictionary of British Names では「ジョージ・ショルティ」という発音を行っている)。なお、夫人は英国人である。

初来日は1963年、ロンドン交響楽団との演奏旅行であった。ただし、当時最晩年だったピエール・モントゥーが同行していたため、その影に隠れてさほど脚光を浴びることはなかった。その後は1994年のウィーン・フィルとの最後の来日まで、たびたび日本を訪れた。

演奏会・録音ともに、ウィーン・フィルとは頻繁に共演している。デッカはショルティのダイナミックな指揮に魅了され、「指環」の全曲録音を依頼した。ショルティによって、シカゴ交響楽団は今日の世界的評価を獲得した。ショルティ赴任以前は、楽団の内紛や治安の悪化で低迷しており、アメリカの一地方オーケストラに過ぎなかった。初のヨーロッパ公演を成功させたショルティとオーケストラは、シカゴ市民に熱狂的に迎えられ、「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」。

シカゴの野球解説者は、正確であることを「ショルティのよう」と喩えた。シカゴの電話帳の表紙を飾ったこともあり、市民から愛された指揮者であった。ヨーロッパ大陸への客演はドイツの放送交響楽団が多く、晩年までミュンヘン・シュトゥットガルト・ケルンには特に頻繁に客演していた。

1990年代には、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生前には遠ざけられていたベルリン・フィルやザルツブルク音楽祭にも登場するようになる(中川右介「カラヤン帝国興亡史」によると、カラヤンがウィーン国立歌劇場の音楽監督だった頃に「ニーベルングの指環」の全曲録音がなされたことから、カラヤンサイドがことさらショルティを意識していたようである)。今のシカゴ交響楽団は正確無比の代名詞のような存在であり、「このフレーズはシカゴじゃなきゃ無理!」とアメリカの大学の作曲のレッスンでコメントが出るまでになった。

ショルティ自身は常々カラヤンのことを賞賛していた。晩年のカラヤンとの関係は良好だったとも語っている(急死直後に掲載された雑誌『音楽の友』のインタビューより)。
ショルティの発言を裏づける事実がある。1987年のザルツブルク音楽祭の折、もう先は長くないことを悟っていたカラヤンは、ショルティに「影のない女」の再演を託したという(1992年、ゲッツ・フリードリヒ演出で再演)。

Wikipedia

inserted by FC2 system