ジョルジュ・プレートル(Georges Pretre, 1924年8月14日 - )は、フランスの指揮者。
ウィーン交響楽団終身名誉指揮者、シュトゥットガルト放送交響楽団名誉指揮者であり、2004年にはウィーン楽友協会の名誉会員を務めている。2013年現在、特定の楽団、歌劇場への常任・専属契約はない。2008年のニューイヤーコンサートにおける出演で国際的な露出度を高め脚光を浴び、改めて過去の演奏についても再評価を受けている。同コンサートには、2010年にも2回目の出演を果たしている。
1924年にフランスのノール=パ・ド・カレー地域圏ワズィエール(フランス語版)で生まれる。作曲家に憧れ、 1932年、ドゥエー音楽院(フランス語版)に入学してピアノを学び、1935年にパリ音楽院へ進学した。当初オーボエを学ぼうとしたが、家庭の経済的状況と楽器が高価なことからトランペットを学んだ。学生時代にはジャズ・トランペッターを副業とし、エディット・ピアフやイブ・モンタン等とも舞台を共にすることがあった。
1944年、首席修士相当(Premieres Prix) の評価を受け、さらに指揮に興味を抱き、和声法をモーリス・デュリュフレに、指揮法をアンドレ・クリュイタンス、ピエール・デルヴォー、リシャール・ブラローに師事した。 なおこの頃、“Georges Dherain”の名で2作のオペレッタを作曲する等の創作活動を行なっている。
1946年、マルセイユ市立オペラ(フランス語版)において、ラロの『イスの王様』で指揮者としてデビューする。1948年にリール・オペラ(フランス語版)と、翌1949年から1951年までカサブランカの歌劇場と指揮者として契約、1951年から1955年までトゥールーズ・キャピトル劇場(フランス語版)と指揮者として契約した後、1956年にリヒャルト・シュトラウス『カプリッチョ』のパリ初演に携わったのがパリのデビューとなる。1970年から1971年までパリ・オペラ座の音楽監督に就任、1989年にはパリで行われたG7(アルシュ・サミット)に併せ各国からの出席者を招き、こけら落とし前のオペラ・バスティーユで行われたバスティーユ襲撃200周年の記念コンサートを指揮している。
1958年にリリック・オペラ・オブ・シカゴ(英語版)にてアメリカ・デビューし、その活動の範囲を北米へと拡げ、その後もボストン交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団等に客演、1964年にはニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にて『サムソンとデリラ』でデビューした。
また、 イギリスでも1961年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場でデビューし、1962年から1970年までロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督補佐を務めている。
カラヤンの推挙により、1962年にウィーン国立歌劇場にて『カルメン』ドイツ語版でデビューする。ウィーン交響楽団では1986年から1991年まで第一客員指揮者を務め[4]、その後終身名誉指揮者となっている。1996年から1998年まで南西ドイツ放送シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者を務めた後、1998年に同楽団の設立50周年コンサートを指揮した後、名誉指揮者となっている。
フランスの地方都市におけるキャリアを通じ、レパートリーにはフランス・オペラが多い。
70代を過ぎても、その感性を含め衰えを見せることなく、2001年にはヴェルディ生誕100周年における記念演奏会として『レクイエム』を各所で指揮、2008年にはシェーンブルン宮殿「夏の夜のコンサート」にも登壇している。
2005年にはフェニーチェ歌劇場 のニューイヤー・コンサートを、2008年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートを初めて指揮した(ニューイヤー・コンサートの指揮者としては史上最高齢である)。2009年にフェニーチェ歌劇場ニューイヤー・コンサートに再登壇、そして2010年にはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに再登壇して最高齢指揮者の記録を自ら更新している。
ウィーン・フィルの理事であるクレメンス・ヘルスベルク(ドイツ語版)は2008年の実績を大きく讃え、「成功裏に収めたその公演は楽団にとってもプレートルにとっても大きな喜びであった」と語り、長年の協業と高い経験値を評価した結果、再度プレートルに依頼することを決めたとしている。ちなみに2010年は同楽団の始祖を築いたオットー・ニコライの生誕200年であり、この年のニューイヤー・コンサートにおける指揮者を務めることには大きな意義があった。なお、この年に同楽団と共に小澤征爾の代役だったエサ=ペッカ・サロネンが出演をキャンセルしたため急遽来日し、名誉団員としての号を与えられている。
1950年にリール・オペラ(フランス語版)の支配人の娘であったマルニーの娘ジーナと結婚し、一男一女をもうけた。
オペラ指揮者として、またプーランクを中心にフランス音楽の解釈に関しては高い評価を受けている。しかし「ある特定の特定の部分を強調することにより細部の表現の練磨や全体的なまとまりにかける」というような評価があるように、時折見せる奇抜さからも、すべての演奏について絶対的な高い評価を下すことは難しい。
1986年にウィーン交響楽団と深く関わるようになって以降、かねてから手がけていたリヒャルト・シュトラウスのオペラに加え、様々なドイツ音楽との関わりを深め、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの交響曲を中心に構成されたツィクルスも行なっている。プレートル自らも「私は単なる指揮者ではなく解釈者である」と述べていることから、伝統的な演奏形式を踏襲しない解釈に関しては評価の分かれるところである。しかし、2013年時点でスクロヴァチェフスキやマリナーと共に1920年代に生まれた再高齢現役指揮者の一人であり、その高い独創性と華やかな創造力による比肩のない演奏は一聴に値する。
1959年、フランシス・プーランクのオペラ『人間の声(フランス語版)』のオペラ=コミック座における初演後、プーランク自身から「今日は私の大好きな指揮者が誕生した記念日である」との称賛を贈っている[8]。1963年には『7つのレスポンソリウム』(Sept repons des tenebres)を初演している。1999年にプーランク生誕100周年を記念して催された一連の演奏会にも数多く出演した。
パリ音楽院管弦楽団の時代からのパリ管弦楽団とパリ国立歌劇場管弦楽団とは関係も長く、来日公演も行なっている。また、1980年代半ばからウィーン交響楽団における演奏の機会が多く、いくつかのツィクルスも行なっている。2004年にウィーン楽友協会の名誉団員となってからは同楽団の代表的な客員指揮者の一人として活躍し、ニューイヤー・コンサートの指揮も務めるようになっている。
プレートルの知名度を挙げるひとつの契機となったマリア・カラスとの共演は、1961年に行われた『パリのマリア・カラス』の録音で、カラス本人がプレートルをお気に入りの指揮者として指名したことに始まる。その後、1962年にロイヤル・フェスティバル・ホールを皮切りにモンテカルロ・ハンブルク・エッセン・ボンで行われたカラスのコンサートツアーで指揮者を務め、翌1963年にベルリン・デュッセルドルフ・シュトットガルト・ロンドン・パリ・コペンハーゲンで行われたコンサートツアーでも指揮者を務めている。1964年にはパリ・オペラ座で行われた『ノルマ』において、カラスと今度はオペラで初共演した。
マリア・カラスと長い交際があったようなイメージが持たれることがあるが、カラスは歌手としてすでに下り坂にあり、実際にはコンサートツアーにおける13回の共演と18回のオペラでの共演記録しか残っていない。録音としても正式なスタジオ録音としては、ビゼーの『カルメン』全曲と、カラスにとって2回目のスタジオ録音であるプッチーニの『トスカ』全曲、フランス・オペラ・アリア集『パリのマリア・カラス』の3録音しか残されていない。なお、1965年7月5日のコヴェントガーデン王立歌劇場における『トスカ』はカラスの最後のオペラへの出演となった。