指揮者: ハンス・クナッパーツブッシュ Hans Knappertsbusch

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。


ミュンヘンやウィーンで活躍し、第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭を支えた指揮者でもあった。リヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの演奏で有名だった。
193センチの長身でいかつい顔の指揮者で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。

生涯

ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。ギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインと同郷である。子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー」であったと言われる。音楽の勉強もケルン音楽大学で行っており、ブラームス演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ。

1909年から1912年にはバイロイト音楽祭に、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラで修行に入り、34歳の時の1922年には、ブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。しかし、客演先のオランダのハーグで、ヒトラーをからかうような発言をしたことがナチス高官の耳に入りヒトラーを激怒させ、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追い出された(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に来演した。1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。

1945年8月17日、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場のバイエルン州立管弦楽団とのコンサートで活動を再開するも、1ヵ月後に連合軍から「反ユダヤ主義者」という誤った嫌疑で活動を禁止されてしまう(彼はユダヤ人とも交際が幅広かった。禁止解除後、連合軍は謝罪している)。2年後の1947年にバンベルク交響楽団を指揮し改めて活動を再開。ミュンヘンとウィーンを中心に指揮活動を継続した。1951年にはバイロイト音楽祭に初出演、『指環』、『パルジファル』を指揮したが、資金不足の賜物であったヴィーラント・ワーグナー創案の「新バイロイト様式」の演出に納得がいかず、その抗議のために1953年の同音楽祭の出演を取りやめた。最初の舞台稽古の際には、舞台を見回して「何も用意していないのはいかんな」と言ったと言われる。音楽祭は、かつてミュンヘンから彼が追い出された時の後釜だったクラウスに代演を依頼し、その演奏が殊の外ヴィーラントの気に入ったため、翌年以降の来演の契約も取り付けた。ところが、クラウスは翌1954年5月、メキシコシティにて心臓発作で急逝し、慌てたヴィーラントは平身低頭してクナッパーツブッシュにバイロイト復帰を懇願、彼がこれを受け入れ、音楽祭に復帰した。とは言うものの、夫人が復帰要請の電話に出た際、クナッパーツブッシュは「(かけてきたのが)ヴィーラントだったら切れ」と言い、夫人が電話の相手がヴィーラントではなく弟のヴォルフガングであることを告げると、彼は即座に応対に出たと伝えられ、結局はヴィーラントを終生毛嫌いしていたようだったと言われる。
その後はウィーン、ベルリン、バイロイト、そして長駆イタリアやパリで演奏活動を続けたが、1961年にブリュッセルで胃の大手術を受け、手術後は体力が衰えがちとなり椅子に座って指揮するようになった。1964年の秋に自宅で転倒して大腿骨を骨折したのが原因で一気に体力が衰え、翌1965年に自宅で亡くなった。

人物

ナチスには終始冷淡であった。ただ、ナチス政権奪取後は流石に表だった批判はなく、ある時は体制に迎合してトーマス・マンを非難する論文に署名したり、ヒムラーの臨席による親衛隊相手のコンサートを主催するなど、それなりに合わせてはいたが、「彼のオペラを聴くのは苦痛だ。」とヒトラーに言われるほど嫌われ、ミュンヘンを追放されたことが、ナチス嫌いに拍車をかけることとなる。ウイーン時代には演奏会でのナチス式敬礼を拒否したり、ヒトラーを出迎えなかったり、ヒトラーのラジオ放送に悪態をついたり、ナチス式敬礼をした部下に「わしの前でそんな下劣なあいさつをするな!」と叱るなど、その反骨ぶりは相変わらずであった。ためにナチスから冷遇を受けるが、クナッパーツブッシュ自身にとってはむしろ幸運であった。あれほどナチスによる音楽活動に従事していたにもかかわらず、戦後断罪されなかった最大の根拠となったのである。

演奏解釈・スタイル・レパートリー

「指揮で汗をかいてはならぬ」云々という文章で知られるリヒャルト・シュトラウスが、1925年に著した『若い指揮者のための10の金科玉条』の「若い指揮者」とは、実はクナッパーツブッシュのことを指していると言われている[要出典]。また、岩城宏之がウィーンにいた頃、ウィーン・フィルの楽員に「クナの指揮スタイルが理想だ」と言ったところ、「クナは若い頃は無茶苦茶していたんだ。年をとってからああいう風になっただけだ。君も若いうちは無茶苦茶やればいい」と諭されたという。このように、若かりし頃のクナッパーツブッシュの演奏スタイルは、後年のイメージとは大きくかけ離れたものだったようである(同じことが、オットー・クレンペラーなどにも当てはまる)。40代からレコーディング活動を行っているが、収録時間の関係もあったのだろうがテンポの変化が激しく、後年にレコーディングされた一連のレコード群と比較すると、この差は歴然としている。後年はレコーディング活動を疎ましく思うようになっていったといわれる。

21世紀に入ってクナッパーツブッシュがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったコンサート映像(ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲、『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と「愛の死」、ジークフリート牧歌など)がDVD化され、クナッパーツブッシュの指揮の映像を広く目にすることができるようになった。DVDでは、クナッパーツブッシュがややあわて気味に舞台に登場すると、客席に軽く一礼しすぐさま演奏に入ろうとする。ウィーン・フィルの楽団長であったシュトラッサーによるとコンサートに際してはしばしば神経質になっていたからだという。しかし客席の大歓呼でまた振り向かざるを得ない。演奏が始まると、極めて長い指揮棒で控えめな動きでゆっくりと、そして明確に拍を取るが、そこにはショウマンシップ(観客に見せるための派手な動き)は微塵も感じられず素朴そのものである。また絶えず眼を使って奏者に合図を出しており、あるソロのパッセージがうまくいくと顔の表情で満足の意を伝えている。上記の通り晩年は腰掛けて指揮していたが、長い小節にわたって大きなクレッシェンドがかかる時は椅子から徐々に立ち上がり長い腕を宙に高く突き上げ、オーケストラから気が遠くなるほどの強音を引き出している。

ヴィルヘルム・バックハウスとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番などコンチェルトの伴奏も映像として残されているが、こちらは眼鏡を掛けて総譜を絶えず見ながら、より控えめにそして極めて真面目に振っている。コンチェルトの指揮に関しては、残された録音ではしばしばソリストとオケのテンポ等がずれてしまっているため、クナッパーツブッシュはソリストに合わせようという気がないのではないかという説もあったが、この映像を観る限りそれは完全な誤りであることが分かる。

レパートリー

ワーグナー指揮者、ブルックナー指揮者のイメージが強すぎるため見過ごされがちだが、実際のレパートリーは幅広く、コンサートではバッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、バルトーク、フランツ・シュミット、ストラヴィンスキー、テオドール・ベルガーを、オペラではリヒャルト・シュトラウスの他、ヴェルディやプッチーニ、コルンゴルト、プフィッツナー、ヴォルフ=フェラーリなども指揮していた。また、ウェーバーやシューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの小品を振った演奏も高く評価されている。晩年は、「指揮をしたい曲目を振らせてくれるならギャラはなくてもよい」とのスタンスでレパートリーを絞っていった。

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