指揮者: オットー・クレンペラー Otto Klemperer

オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日 - 1973年7月6日)は、現ポーランド(当時ドイツ領)に生まれたユダヤ系ドイツ人の指揮者・作曲家である。 20世紀を代表する指揮者の一人とされる。

ドイツ圏の古典派・ロマン派から20世紀の音楽まで幅広いレパートリーを持つ。晩年の録音で聴くことができるように、アンサンブルや音色・情緒的表現など表面的な美しさよりも、遅く厳格なテンポにより楽曲の形式感・構築性を強調するスタイルでよく知られている。1950年代初頭ごろまでの録音には、逆に新即物主義的快速テンポによる同様のアプローチが見られる。
従兄弟に『第三帝国の言語「LTI」』の著者である作家のヴィクトール・クレンペラー(1881年 - 1960年)がいる。息子は俳優のヴェルナー・クレンペラー(1920年 - 2000年)である。

生涯

少年期

ポーランドのヴロツワフ(当時はドイツ領ブレスラウ)に生まれる。4歳の時にハンブルクに移り、同地で少年時代を過ごす。音楽教育はハンブルク移住後、母親にピアノの手ほどきを受けたことに始まり、その後進学したフランクフルトのホッホ音楽院で、その後ベルリンに移り、作曲、指揮とピアノを専攻、ハンス・プフィッツナーに師事する。

ドイツ時代

22歳でグスタフ・マーラーの推挙を受け、プラハのドイツ歌劇場の指揮者になる。以後、ハンブルク、ストラスブール、ケルン、ヴィースバーデンの歌劇場で指揮者を務める。1919年にはケルン歌劇場の歌手であるヨハンナ・ガイスラーと結婚。1921年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にデビュー、じきにベルリンでも好評を博するようになり、1927年にはウンター・デン・リンデン国立歌劇場に付属するクロル歌劇場の監督に就任する。その革新的な試みは大きな話題となるが、ドイツ経済の急速な悪化とナチスに代表されるドイツ復古主義の台頭もあり、1931年には劇場は閉鎖される。48歳の時(1933年)、ナチス・ドイツ政権樹立に伴い、スイスを経由しアメリカ合衆国へ亡命する。

アメリカ時代

亡命後、クレンペラーはロサンジェルス・フィルハーモニックの指揮者となり、オーケストラの水準を大きく向上させる。また、各地のオーケストラに客演し、ピッツバーグ交響楽団の再建にも関与する。ところが、1939年に脳腫瘍に倒れたクレンペラーは、言語障害や身体の麻痺といった後遺症との戦いを余儀なくされ、ロサンジェルス・フィルの音楽監督の座も失うことになる。この病をきっかけに元来患っていた躁鬱病も悪化、奇行が目立つようになり、以後アメリカでのキャリアは完全に断たれる。

第二次大戦後・晩年

第二次世界大戦後はヨーロッパに帰還を果たし、62歳(1947年)でブダペストのハンガリー国立歌劇場の監督に就任。すぐさま劇場を充実したものとするが、3年後には社会主義リアリズムを振りかざす共産党政権と衝突して辞任する。その間、北米ヴォックス・レコードとのレコーディングを重ね、また世界各地のオーケストラにも客演する。やがてロンドンでの客演が英国EMIのプロデューサーであるウォルター・レッグに感銘を与え、1952年にEMIとレコード契約を交わすことになる。

アメリカの音楽団体による活動の制限、アメリカ市民権継続の問題などからしばらく北米に留まることとなるが、やがてヨーロッパへ脱出し、ドイツの市民権を回復する。こうして、1954年(69歳)からフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングを開始したクレンペラーは、EMIから多くのレコードをリリース。これにより、忘れられていた彼の名は広く知れ渡り、巨匠として世界的な名声を得ることになる。そして1959年8月に、クレンペラーはレッグと終身のレコード録音契約を結ぶと共に同楽団初の常任指揮者の座に就いた。

クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団の関係は、楽団が1964年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団として新しいスタートを切った後も変わることなく続いた。

晩年は聴覚を含む体の衰えが著しくなり、1972年1月に公開の演奏活動から引退を表明。同年末にはレコーディング活動からも引退する。翌年にスイス・チューリッヒの自宅で死去した。

マーラーとの関係

マーラーはクレンペラーと知り合った時、マーラーの交響曲第2番『復活』をクレンペラーがピアノ版に編曲した楽譜を見て強く感心し、自身の名刺に推薦文を書き込み渡した。以下はその概要。
私グスタフ・マーラーはオットー・クレンペラー氏を推薦します。彼はこの若さで既に卓越した音楽家であり、指揮者として世に出ることを望んでいます。私は彼がカペルマイスターとしての職務を全うできると保証します。また私は彼に関する問い合わせについて、何なりと答える用意があります。
当時、マーラーはウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の音楽監督であり、国内外での高い名声を誇る彼の推薦によりクレンペラーは指揮者としてのキャリアを開始できた。そのことについて、クレンペラーは後年までマーラーに感謝していたとされる。
マーラーに私淑したクレンペラーにとって、彼の作品は重要なレパートリーとなったが、すべての交響曲を演奏することはなく、一部の作品については批判的な見解を述べている。そのためか、以前は録音等でも、マーラーの直弟子だったブルーノ・ワルターに比べるとあまり評価されない傾向にあった。また、クレンペラーのマーラー演奏は、煩雑な演出や主観的な感情表現を拒否した冷徹で厳しい解釈が特徴となっており、濃厚で劇的なマーラー演奏を求める向きからはあまり好まれない傾向にある。しかしながら、彼の残した演奏は確実に一定の評価を受けている。

逸話

1985年に西ベルリン(当時)で発行された記念切手 クレンペラーは身長ほぼ2メートルの大男で性格は狷介にして不羈、加えて自他ともに認める女好きでもあることから、逸話の多さで知られる。また、自身の命や指揮者生命に関わる怪我や病気も数多い。躁鬱病やアメリカ時代の脳腫瘍のみならず、後頭部からステージ下に転落して頭部を強打し背骨を骨折、モントリオール空港で転んで足と腰骨を複雑骨折するなど、様々な事故を体験しているがそのつど復活を遂げている。

オペラ指揮者として

クレンペラーは晩年の録音で大きく名を成したことから「大器晩成」と言われることがある。しかし彼は、ドイツ時代からすでに同時代の音楽にも精通する一流の指揮者として知られていた。
なかでもクロル歌劇場監督の時代には、独自予算がなく人員も制限された状況の中で、無名の曲目や同時代の音楽を積極的に演目に乗せ(ただし十二音技法による音楽はその限りではなかった)、有名な曲目に対しても新しい現代的な演出を試みるなど、その果敢な試みは多くの好評と反発を呼び起こした。とくにワーグナーのオペラを上演した際には、のちにヴィーラント・ワーグナーが確立したとされる「新バイロイト様式」的な演出であったため、多くのワーグナー崇拝者から激烈な抗議を受けた。

作曲家として

クレンペラーは指揮活動の他に作曲も行っていた。しかし、今日においてそれらの作品はほとんど省みられることはなく、評価の対象にすらなっていない。クレンペラーの作品の中で最も有名なものは、自身の歌劇「ダス・ツィールからの「メリー・ワルツ」である。他にも6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、歌劇、歌曲などがある。作曲活動は、青年期と晩年に集中しているのも特徴である。
また、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』終楽章のコーダを改変し演奏している。本来この作品はイ長調で終結するが、クレンペラーはこれが気に入らず、イ短調のままで終結するコーダを作曲した。録音も残されている。

フィルハーモニア管弦楽団との関係

この楽団は英国EMIのレコード作成用楽団だったが、創立者ウォルター・レッグの同社辞職に伴い、レッグは同オーケストラの解散を宣言し(オーケストラは彼個人の所有物だった)、「フィルハーモニア管弦楽団」の名称すら売却してしまった。しかし、楽員たちは「ニュー・フィルハーモニア管弦楽団」(後に名称は元に戻る)として自主運営を始め、クレンペラーも楽団の会長に就任して多くの録音を残した。ある女性奏者は「神様のもとで演奏出来て、そのうえ給料まで戴けるなんて申し訳ない」と漏らしたという逸話も残っている。その狷介で奇人めいた性格にもかかわらず、クレンペラーは多くの音楽家から敬意を持って遇された。

死後

クレンペラーのディスクはほとんどがEMIからのものだが、近年では傘下のテスタメント・レコードが積極的にライヴや放送音源をリリースしている。また、戦前/戦時中の録音は著作権切れが迫っていることもあり、いろいろなレーベルから音源の発掘・CD化が行われている。

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