指揮者: ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)はオーストリアの指揮者。

1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。
20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった。

人物・来歴

カラヤンは1908年にザルツブルク州のザルツブルクで、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング・フォン・カラヤン(ドイツ語版)(1906年 - 1987年)も後に音楽家になっている。先祖は東ローマ帝国に仕えたギリシャ人のカラヤニス家(Karaiannis, Caragianni)の出身であるといわれているが、ギリシャ化したアルメニア人(スラブ系マケドニア人の説もあり)だという説もある。カラヤンのカラはテュルク語で「黒」を意味するが、バルカン言語地域ではその語は存在しない。アルーマニア人(中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。ヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかともいわれる)の子孫という説もある。高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは現在のギリシャ共和国のコザニに生まれて1767年にウィーンへ向けて出発し、最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住した。ゲオルク・ヨハネスは兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功し、フリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日に爵位を受け、貴族の称号である「フォン」を添えてvon Karajanという苗字になった。ヘルベルトの母方はスロヴェニア人の家系であり、民族的にはスラヴ人の血を引いている。カラヤン自身は、自らがオーストリア人であることを強く自認していた。出生名はHeribert Ritter von Karajan(ヘリベルト騎士フォン・カラヤン、騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン)だが、1919年、オーストリア・ハンガリー帝国の終結に伴う貴族制度の廃止により「騎士」「フォン」が外され、以降のオーストリアでの公式名(官公庁の証明書など)はヘリベルト・カラヤン(Heribert Karajan)(母音のiが入るのはスロヴェニア系の特徴)。芸術活動を行う上でカラヤン自身が出生名(フォン入り)にこだわり、芸名(芸術家名)として「ヘルベルト・フォン・カラヤン」 (Herbert von Karajan) を名乗ることを官憲に認めさせた経緯がある。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。

1946年、ウィーン・フィルとの第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であったことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌1947年には再び処分保留となった。

1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後もバイロイトに戻ることはなかった。この時期ウィーンフィルおよびウィーン国立歌劇場とも断絶状態となっている。

1954年11月、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリンフィルとのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめ、この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。戦後、フルトヴェングラーの死までカラヤンは同団の指揮台に2~3回しか登場しておらず、急転直下の就任であった。

1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。日本公演ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」やブラームスの交響曲第1番などが特に評価され、日比谷公会堂の客席からはすすり泣きさえ聞かれたという。

1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。ベルリンとともに、世界の人気を二分する両オーケストラを同時にたばねることになり(しかも加えてミラノ・スカラ座でも重要な位置を占めていた)、このころから帝王と呼ばれ始める。残された録音が少ないために忘れられがちであるが、この時期を中心にウィーン交響楽団への登場も非常に多い。演奏会としてはフィルハーモニア管弦楽団の倍以上、150回に及び、これはベルリン・フィルに次ぐ数字である。特に同団とは姉妹関係にあるウィーン楽友協会合唱団との共演による声楽曲(バッハの「マタイ受難曲」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など)やブルックナーがこのコンビの得意レパートリーであった。

ウィーン国立歌劇場のポストは監督のエゴン・ヒルベルトと対立し1964年に辞任。以後十数年、ウィーン・フィルとは一部のレコーディングとザルツブルク音楽祭のみでの関係となる。1950年代からはミラノ・スカラ座でも主要な指揮者として活躍していた(当初はドイツオペラ担当、のちイタリアオペラも指揮)。1964年12月17日にスカラ座での椿姫の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では「椿姫」の上演を封印することとなった(カラスの呪い)。このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。ウィーン離任後はベルリン・ドイツ・オペラにも一度登場するが、この関係は継続されず。以後彼のオペラ活動は歌劇場よりも音楽祭が中心となっていく。

1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。1972年にはベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。ベルリン・フィルがオペラのオーケストラピットに入るようになったのはこの音楽祭が契機となっている。1972年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。

四半世紀にわたり、カラヤンとベルリン・フィルは良好な関係を維持したが、1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルと対立した。その激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「お金の魔術師」というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、コロンビア・アーティスト・マネージメントがカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出した。ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。

翌1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。7月16日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がカラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心肺停止の状態になった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。満81歳没(享年82)。

移籍に当たっては、そのテストケースとしてカルロ・マリア・ジュリーニを先にソニーへ送り込み、また「カラヤンの耳」とも喩えられたレコーディング・エンジニアのギュンター・ヘルマンスも送り込んでいた。

辞任したベルリン・フィルとの最後のコンサートは、ザルツブルク復活祭音楽祭でのヴェルディのレクイエム。生涯最後の録音と演奏会は、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番だった。カラヤンは逝去する前日にザルツブルク祝祭大劇場で、この年の夏のザルツブルク音楽祭でプレミエを迎えるヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハーサルを行っていた。この突然の死がなければ、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手し、また、1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったともいわれている。

カラヤンは指揮者の職業病とも言える脊椎の持病に悩まされ続け、生涯に12回もの大手術を受けた。1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等が追い撃ちをかけた。晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなった。その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった。オペラや合唱曲を指揮する時は、全盛期でも目を開けて指揮しており、これは残された映像で確認できる。

音楽

同じく戦後派の指揮者カール・ベームは、カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得していたと述べている(ベームは正反対)[13]。レガートを徹底的に使用し、高弦を鋭くさせ、(1960年代後半から)コンサート・マスターを2人おき、コントラバスを最大10人と大型化することにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。ライナー・ツェペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。一方で、一部の評論家からは音楽の音響面の美しさばかりを追求し作品の芸術的内容を軽視していると感じられたため、「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」などと批判されることもあった。しかし、カラヤンの正確さと完璧さの追求はLPレコード時代からその自己演出と相まって一定の評判を得ることに成功し、レコードのセールスと知名度の広がりの面で大きな成功を収めている。

細身の体を黒で統一された服装で包み、白いマフラーを長く垂らせたスタイルでスポーツカーや自家用ジェット機を自在に操る姿はダンディズムに満ち、既成の音楽家のイメージを一新させた。男性モード雑誌から抜け出したようなカラヤンのいでたちは、その作りだす音楽以外の要素でも人目を引いた。指揮者は本来、反射神経を要求する職業であるが、実際にはその激しい動作が笑いの種になってきた歴史があり、その滑稽さを皮肉るカリカチュアも19世紀以来無数に描かれ、フルトヴェングラーでさえも揶揄の対象にされてきた。そうした既成の概念を覆すように、カラヤンの動作はスマートで美しく洗練され、目を閉じ手を静かにウェイブする姿は神秘的にすら見せることに成功し、その雰囲気に酔う聴衆も多く存在するようになった。

その美意識はオペラの配役にも及び、1977年のザルツブルク音楽祭で『サロメ』のタイトル・ロールに当時はまだ無名だったヒルデガルト・ベーレンスを起用した際、カラヤンは
「サロメという女は20歳になっていない。従って、若くて細身の魅力ある歌手がいて初めて成立するオペラなのだ」
と語った。 オペラという総合芸術の音楽監督が容姿も考慮して歌手を決めたのはカラヤンが最初だといわれ、こうした独自の美学がカラヤンの音楽づくりには徹底されていた。

カラヤンはオーケストラに(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけさせ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。目を閉じる指揮法については、暗譜での指揮に関しクナッパーツブッシュから「(暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。

カラヤンは当時の同世代の指揮者としては非常に広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍したカール・ベーム、オイゲン・ヨッフム、ヨーゼフ・カイルベルトといったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、ブルックナーなどのドイツ・ロマン派の音楽や、チャイコフスキー、あるいはモーツァルトのディヴェルティメントやセレナーデなどで特に高く評価された。また、ヴェルディやプッチーニ等のイタリア・オペラにはドイツオペラ以上のこだわりを見せ、北欧と英米以外の指揮者が演奏することの珍しいシベリウスやグリーグなど北欧の作品も手がけた。また、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの新ウィーン楽派の演奏でも高い評価を得た。舞踏音楽、序曲、行進曲といったアンコール・ピース的な小品にも熱心で、世界最高クラスの地位にありながらヨハン・シュトラウスをこれだけ繰り返し録音し続けた指揮者というのは、少なくとも彼の世代まではクレメンス・クラウス程度しか存在しなかった。R.シュトラウスとは個人的な知己でアドバイスをもらっており、彼の作品の演奏も高い評価を得ている。また『メタモルフォーゼン』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。

1970年にワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前のドレスデンで行った(この録音企画の当初の指揮者はサー・ジョン・バルビローリだったが、1968年の「プラハの春」事件に際して、亡命チェコ人であるラファエル・クーベリックが音楽家たちにあてた「東側諸国での演奏自粛」という嘆願書にバルビローリが賛同して、この録音を断った。しかし、カラヤンはその代役を快く引き受けた)。また映像作品にも取り組み、積極的に新しい分野を開拓していった。ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前はコヴェントガーデンやウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。その他の録音・映像として、1982年におけるマーラーの交響曲第9番、1988年におけるブルックナーの交響曲第8番、ザルツブルクにおけるオペラ映像などの実績が見られる。

ライフスタイル

ジェット機を乗り継ぎ世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初の一人だった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔という役割をするのが普通であった。また、自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機はダッソー ファルコン 10。晩年になり、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替としてヘリコプターの免許を取得している。

無類の車好きでありスピード狂としても知られ、様々なスポーツカーや高性能車、高級車を所有し乗り継いでいた。歴代の愛車はメルセデス・ベンツ・300SL、ポルシェ・RSKスパイダー、フェラーリ・275GTB、ロールス・ロイス・ファントムV、フォード・GT40、ランチア・ストラトス、ルノー・5ターボ、ポルシェ・911(ターボおよびカレラRS)、メルセデス・ベンツ・500SEL、アウディ・クワトロなど。オースチン・A90・アトランティック(英語版)やミニ・クーパーMk2といった、より一般的な小型車も所有したことがあり、また、日本車(スバル・レオーネツーリングワゴン)を友人のスイス人医師にプレゼントしたこともある。運転技術はF1ドライバーのニキ・ラウダ直伝。最晩年には赤いポルシェ・959に乗っていた。エリエッテ夫人は納車された959を見て、「もっとレコードを録音してもらわなきゃね」とジョークを飛ばしていた(DVD「カラヤン・イン・ザルツブルク」にその時の様子が映像収録されている)。カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の主人から「アルプスで1番速いダンナ」と呼ばれていた。

生前は派手な生活で知られたが、自ら地元アニフ(Anif)の教会内に用意し死後に埋葬された墓地は極めて質素である。死後、ザルツブルク市は遺族に対し豪華な墓地の提供を申し入れたが、エリエッテ夫人は故人の遺志を尊重しそれを断っている。

日本とカラヤン

日本との関係は古く、1954年の初来日以降、11回来日している。日本でのカラヤンの人気は高く、指揮者の代名詞としてクラシック・ファンのみならず一般大衆もその認知するところであった。中でもカラヤンの「運命」と「未完成」をカップリングしたLPは、カラヤンの死去時点で、日本で約150万枚を売り上げた。

カラヤンは、東京・赤坂にある日本有数のコンサートホールであるサントリーホールの建設にも設計の段階から携わっている。サントリーホール大ホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地であったベルリン・フィルハーモニーをモデルにしている(両ホールはヴィンヤード型と呼称されるタイプのコンサートホールである)。サントリーホール建設時の業績を称えて、サントリーホール前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいる。サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。

来日公演

NHK交響楽団

ベルリン・フィル

ウィーン・フィル

CDとカラヤン

CD(コンパクトディスク)の記録時間「74分」は、カラヤンが決めたという俗説がある。CDの開発元であるオランダのフィリップス社から記録時間はどれくらいがよいかと問われたとき、カラヤンは「ベートーヴェンの第九が入るようにしてほしい」と要望し、それが通ったという説である。
実際は、CDの直径を決める際、当時普及していたカセットテープの対角線の長さである11.5cmを主張したフィリップスと、12cmを主張したソニーとで意見が大きく分かれ、当時ソニーの重役であった大賀典雄が調査の末、74分収録できればたいていの交響曲及びオペラの一幕はCD一枚に収まるという結果を得てそれを根拠にした。前者ならば録音時間は60分、後者ならば74分録音できることになる。
カラヤンの影響については、大賀自身が自著で否定している。1981年のザルツブルク復活音楽祭で、ヘルベルト・フォン・カラヤン財団が、ソニー、フィリップス、ポリグラム・グループと協力し、急遽、CDの生産に踏み切ると発表している。 カラヤンの没後も、生前は発売が許可されなかった録音や、デジタルリマスタリングを施したもの、あるいはザルツブルク音楽祭でのライブや放送録音の発掘などで新リリースが相次いでいる。中でも、1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン系諸国を中心に大ヒットを記録した。2006年には、FIFAワールドカップを記念して、商品としては未CD化であった「ヨーロッパ国歌集 ザ・アンセム・アルバム(オリジナルLPは1972年の「ヨーロッパ連合国歌集」)」がギリシャ国歌とデンマーク王家の歌である「クリスチャン王は高き帆柱の傍に立ちて」を追加してリリースされた。また、同年には1957年(ベルリン・フィル)と1959年(ウィーン・フィル)の日本公演を収めたDVDがリリースされた。2007年12月には1984年10月の大阪公演(『ローマの松』ほか)のDVDが発売された。2008年には、晩年の日本・イギリスでの公演などライブ録音のCD・DVDが多数発売された。2010年には、1977年の普門館での公演のCDが発売された。

エピソード

Wikipedia

inserted by FC2 system