指揮者: アンタル・ドラティ Antal Dorati

アンタル・ドラティ(Antal Dorati, ハンガリー語表記:Dorati Antal, 1906年4月9日 - 1988年11月13日)は、ハンガリー出身の指揮者・作曲家。

アメリカや北欧での活躍が長く、またイギリス女王エリザベス2世からナイトに叙任されている。妻はピアニストとして著名なイルゼ・フォン・アルペンハイムである。

生涯

父アレクサンダーはブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト、母マルギトはピアノの教師という家庭環境でブダペストに生まれた。
フランツ・リスト音楽院でコダーイとヴェイネル・レオーに作曲を、バルトークにピアノを学ぶ。1924年にハンガリー国立歌劇場で指揮者としてデビューを果たす。その後、フリッツ・ブッシュのアシスタントとしてドレスデンに行き、次に現在のドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット=ディーブルク郡ミュンスターのオペラ・ハウスの指揮者として契約し、1933年まで滞在した。

ドラティのアメリカでのオーケストラ指揮者としてのデビューは1937年、ワシントン・ナショナル交響楽団との共演であった。1947年にアメリカ合衆国に帰化した。1949年にミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)を指揮して、バルトークのヴィオラ協奏曲(ティボール・シェルイによる補筆完成版)の世界初演を行なった。
1950年代以降、マーキュリー・レコードにたくさんの録音を残し、代表的な録音としては序曲『1812年』をはじめとする高音質録音を数多く残した。また、ハンガリー動乱後の亡命者を中心に西ドイツで結成されたフィルハーモニア・フンガリカの音楽監督を長く務め、ハイドンの交響曲全集、コダーイの管弦楽曲集などを録音している。1975年に自叙伝(Notes of Seven Decades)を上梓した。1983年にイギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を授与される。1988年に、癌のためスイスのゲルツェンゼーの自宅にて他界。
なお、1963年にはピエール・モントゥー、ゲオルク・ショルティと共にロンドン交響楽団の3人の指揮者の一人として初来日、1982年には読売日本交響楽団に客演した。

レコーディング

モノラル時代からデジタル時代にかけて、約600点の録音を残した。とりわけバルトークやコダーイの作品のほか、ストラヴィンスキーの三大バレエは評価が高い。また、フィルハーモニア・フンガリカを指揮して史上初となるハイドンの交響曲全曲録音を行なった。ハイドンの2つのオラトリオの録音は、名ソリストの参加と優秀録音により評価が高い。ケクランの初期の擁護者で、BBC交響楽団とケクランの交響詩《ル・バンダール=ログ》を録音している。

作曲家として

作曲家として《交響曲第2番》に代表される数多くの作品を残したほか、ヨハン・シュトラウス2世の作品を新たに編集したバレエ音楽や、オッフェンバックの《美しきエレーヌ》や《青ひげ》を改編した序曲、ムソルグスキーの《ソロチンスクの市》などの編曲がある。またハインツ・ホリガーのために書かれた「無伴奏オーボエのための5つの小品」の他、「オーボエとピアノのためのデュオ・コンチェルタンテ」など、コンクールの定番となっている独奏曲・室内楽曲も手掛けている。

手腕

ドラティはオーケストラ・ビルダーとしての才覚を見込まれ、いくつかの危機に瀕したオーケストラをその手腕や人徳によって救済し、失われかけた名声を取り戻すのに力を尽くした。ドラティの自作を上演し、あるいは録音したオーケストラもある。
1.ダラス交響楽団(1945年 - 1948年)【実質的にゼロから創り上げた】
2.ミネアポリス交響楽団(1949年 - 1960年)
3.フィルハーモニア・フンガリカ(1957年 - 2001年)【創設当初から指導にあたり、世界初のハイドン交響曲全集やコダーイ管弦楽曲全集などを録音することによってこのオーケストラの名前を轟かせた】
4.BBC交響楽団(1963 - 1966年)【告別演奏会で《5楽章の交響曲》と《マドリガル組曲》を上演】
5.ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1966年 - 1970年)【BISレーベルに《交響曲第1番》と《交響曲第2番「平和の訴え」》を録音。演奏旅行を行なう】
6.ワシントン・ナショナル交響楽団(1970年 - 1977年)【破産の危機や団員のストライキから救出】
7.ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1975年 - 1979年)
8.デトロイト交響楽団(1977年 - 1981年)【世界的水準を取り戻させた】

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