指揮者: セルジュ・チェリビダッケ Sergiu Celibidache

セルジュ・チェリビダッケ(セルジウ・チェリビダッケとも、Sergiu Celibidache, 1912年7月11日 - 1996年8月14日)は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。


出生

ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であった。

指揮者として

チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。ベルリン滞在中にヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。
戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3か月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。この大事なチャンスに、チェリビダッケは遅刻したらしい。課題曲はヨハネス・ブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。審査員全員一致で優勝。ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とカール・マリア・フォン・ウェーバーのバスーン協奏曲、そしてアントニン・ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。

連合軍がドイツ文化の非ナチ化を目指したことから抜擢されたチェリビダッケだったが、その2回目のコンサートにしてフェリックス・メンデルスゾーンの「イタリア」と、ナチスの旗印とも言えるリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」序曲を組み合わせたプログラムでコンサートを開いている。当時としては最も早い時期でのワーグナー解禁だったが、連合軍のおとがめはなかったようである。

若い楽団員とファーストネームで呼び合い、わずかな食料を分かち合いながら戦後の混乱期を乗り切る(コントラバスのライナー・ツェペリッツあたりがその最後の世代)。有名ソリストを海外から呼ぶこともできなかった時期に、フランス・ロシアものなどの新しいレパートリーを開拓することにも尽力した。活動初期は評論家の受けもよく、ベルリン・フィルを多く指揮し次期首席指揮者と謳われるが、フルトヴェングラーを深く尊敬していた彼は、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するため奔走。2年後の1947年にフルトヴェングラーがベルリン・フィルに復帰するのを手助けした。チェリビダッケは時にはフルトヴェングラーの「下振り」を嬉々として行いながら多くのことを吸収したが、早くフルトヴェングラーに常任に復帰して欲しいベルリン・フィルにとって、チェリビダッケの存在価値は次第に変質していった。原因の一つは、チェリビダッケの求める演奏技術レベルがフルトヴェングラーの要求よりも厳しく、自分の要求に答えられないベテランの団員を入れ替えたがっていたことである。事実彼は自分が「フルトヴェングラーより耳がよい」ことを自認していた上、晩年のフルトヴェングラーは薬の副作用による難聴に苦しんでいた。その他には、彼の派手なアクションや指揮台上での足踏み、唸り声や渋面がスタンドプレーと受け取られ始め、ベルリンの演奏会批評でも叩かれたこともあった。
こうした雰囲気に嫌気がさしたチェリビダッケはベルリン・フィルの指揮回数を減らし、まずロンドンでの客演活動を始め、そしてヨーロッパ全域から中南米にいたるまで客演の範囲を拡大し、ベルリン・フィルと距離を置き始めた。そして、フルトヴェングラーが死の病に伏しているちょうどその時、チェリビダッケはベルリン・フィルとの「ドイツ・レクイエム」のリハーサルで大衝突を起こして決別し、38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまでベルリン・フィルを指揮することはなかった。
フルトヴェングラー没後、ベルリン・フィルの首席の座はヘルベルト・フォン・カラヤンが継ぎ、チェリビダッケはその後、イタリア放送協会 (RAI) に所属する複数のオーケストラ(トリノ、ローマ、ミラノ他)や、スウェーデンやデンマークのオーケストラに転々と客演を重ねた。
1971年に、後のシュトゥットガルト放送交響楽団となる南ドイツ放送交響楽団の創立25周年コンサートを指揮し、その際のアントン・ブルックナーの交響曲第7番の演奏は評判を呼んだ。オーケストラもチェリビダッケの能力を高く評価し、以後およそ10年にわたり、チェリビダッケが望むだけのリハーサルを行い、そのかわり演奏を収録・放送することをチェリビダッケが「黙認」する形で両者の緊密な関係は続いた。南ドイツ放送局に残された映像素材からは、「シェヘラザード」などの放送用演奏は複数回行われたことが確認できる。そういう意味で、録音・録画を一切しない、という当時の触れ込みは必ずしも正確ではなかった。
1979年からは、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、シュトゥットガルト放送交響楽団とは放送用の録画が本人の意に沿わない「編集」を行われた、という理由で1982年を最後に決別。また晩年にはミュンヘン市の芸術監督に就任した。
日本では最初FMによるシュトゥットガルト放送交響楽団の放送で「幻の指揮者」としてファンを増やしていった。1977年秋と1978年春に単身で来日を果たし、読売日本交響楽団に客演、1980年にはロンドン交響楽団と来日。手兵ミュンヘン・フィルとは1986年以降1990年、1992年、1993年と頻繁に訪れた。1986年の公演でのブルックナーの交響曲第5番以降、ブルックナーは来日公演の主要なレパートリーとなり、1990年10月にミュンヘン・フィルとともに来日した時は、ブルックナーの交響曲第4番、第7番、第8番を指揮して、7番、8番はハイビジョンによる録画も行われている。
アメリカには、1984年に、フィラデルフィアのカーティス音楽学校の校長だったジョン・デ・ランシーの要請で、当校で指揮を教えた。そして、当校学生オーケストラを連れてカーネギーホールで開いたコンサートは、あまりにも素晴らしく、ニューヨークの音楽界に衝撃を与えた。ニューヨーク著名の音楽評論家ジョン・ロックウェルは「いままで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!」とのコラムを掲載した。
相当な毒舌で知られていて、ミュンヘン市当局は他の指揮者(クラウス・ウムバッハ)への批判を金で黙らせたとされる。また、カール・ベームが晩年にミュンヘン・フィルに客演しようとした際、チェリビダッケの毒舌(チェリビダッケはベームを「芋袋」「ドンゴロス野郎」と呼んでいた)を耳にし、それを演奏契約解除の通告と見做して出演を取りやめた、という逸話も残っている。反面、ベームが病気のため指揮できなくなったロンドン交響楽団の演奏会をわずか1日のリハーサルで引き受けるなど、その本音はよく分からない。かつてチェリビダッケの毒舌(カラヤンを批判)が新聞の紙面を賑わせた際には、見かねたカルロス・クライバーがアルトゥーロ・トスカニーニに成り済まして「天国でもカラヤンは人気者です」と反論のテレックスを打ったということもあった。

厳しいリハーサル

彼のリハーサルは、全ての音が自分好みになるまで徹底的にリハーサルするというものであった。ゲネプロも普通は1週間のところを3週間要求するといわれ、協奏曲以外は暗譜でスコアなしでセッションをする。ピエール・フルニエをソリストに迎えてドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏したフランス国立管弦楽団との演奏会(1975年ごろ)では紳士ながらもいつもの厳しさを発揮する彼の姿があるが、しかしソリストがダニエル・バレンボイムだと妙に解釈がソリスト任せになり、スコアをめくり間違えるほど不勉強なコンサートもビデオに残されている。しかし例えばヴィオラ奏者が欲しいと思った、素晴らしいヴィオラを買う手助けをしたりするなどの優しい一面があったことがCDが発売されてから明らかになった。またオペラのような練習が限られるレパートリーは、この指揮者には経済的に全く不可能であった。

死後

1947年から1948年頃のフルトヴェングラーとともに行ったベルリン・フィルのイギリス演奏旅行と前後して、チェリビダッケは初めての公式のレコーディングを行っている。ベルリン・フィルを指揮してのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、セルゲイ・プロコフィエフの古典交響曲などがその最初期のもので、その直後にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第25番、ピョートル・チャイコフスキーの交響曲第5番と『くるみ割り人形』組曲などをイギリスでレコーディングしている。自らの録音を聞いて、「エンジニアがテンポをいじった!」と疑ったほど、その結果には満足がいかなかったらしい。
ウォルター・レッグなどEMIのプロデューサーからかなりの悪条件でこき使われた、と感じたこともレコード業界不信を助長したが、ホールの音響に左右されるものをマイクの直接音収録で記録するのには限界がある、と悟ったチェリビダッケは以後、極端に録音媒体の発売を嫌い、ごく少数の例外を除いてはレコーディングは行わなかった。別の意味でカラヤンとの録音が比較されるのも意識したと言われている。他の正規録音には、自ら作曲した『秘密の小箱』がある(ドイツ・グラモフォン社録音)。
なお、晩年になると、映像を伴う録画媒体の制作には積極的に(本人の言によればしぶしぶ)取り組み、ソニーなどで演奏会のビデオソフトが発売された。
チェリビダッケの死後、遺族らが海賊盤が氾濫するのを恐れて(現に日本を中心に多くの海賊盤が出回っていた)と称して、未発表の演奏会の録音をドイツ・グラモフォン、EMIからCD化したが、その音源の選定については、膨大な中からのわずかな数に過ぎず、本当に最善の演奏であるかについては意見が分かれた。特にEMIの録音は年代によってもテンポの設定が若干異なるため、チェリビダッケの演奏の全貌を網羅しているというわけではない。

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