指揮者: ピエール・ブーレーズ Pierre Boulez

ピエール・ブーレーズ(ブレーズ、ブゥレーズとも表記される。)(Pierre Boulez, 1925年3月26日 - )は、フランスの作曲家および指揮者。


人物

パリ国立高等音楽院でアンドレ・ヴォラブール(アルテュール・オネゲルの妻)とオリヴィエ・メシアンに対位法や作曲を師事するが中退し、ルネ・レイボヴィッツ(レボヴィツ、レボヴィス)にセリアリスムを学ぶ。作曲の弟子にはバーゼルの音楽大学で教えたハインツ・ホリガーがいる。ダルムシュタット夏季現代音楽講習会でその初期から活躍し注目される。シュトックハウゼンと共鳴するが、ノーノとは鋭く対立している。

初期にはヴェーベルンの極小セリー形式から出発。シェーンベルクの音楽に対しては次第に批判的となる。また、後にはドビュッシーやストラヴィンスキーの再評価に務めた。詩人では最初にルネ・シャールを取り上げるが、後にはステファヌ・マラルメによる作品を書き、指揮活動としても徐々に前の時代の作曲家へと遡って評価する姿勢が見られる。

ジョン・ケージと往復書簡を交わすほかダルムシュタットなどで交流し、偶然性を導入する。ただしケージなどアメリカ作曲界は偶然性を不確定性(チャンス・オペレーション)として導入したのに対し、ブーレーズをはじめヨーロッパ作曲界は「管理された偶然性」とし、偶然性の結果によってどんなに音楽が異なる解釈をされようとも、全体としては作曲者の意図の範囲で統率されるべきとした。この考えに基づく作品としては「ピアノソナタ第3番」、『プリ・スロン・プリ - マラルメの肖像』などが挙げられる。

フランス国立音響音楽研究所IRCAMの創立者で初代所長(現在は名誉総裁)。1976年、コレージュ・ド・フランス教授に選出。現在はフリーで活躍。

1989年、第一回高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門を受賞した。
2009年、京都賞を受賞する。その際催されたトークイベント(京都日仏学館)において,聴衆の一人から「人生における普遍的なあるべき考え方」を問われたところ,ブーレーズ氏は「好奇心を持ち続けること。」と述べた。

指揮活動

老年の境地に進むにつれて無駄が無く、なおかつ情緒に満ち溢れた指揮・演奏づくりを行うようになっている。
1954年に現代音楽アンサンブルドメーヌ・ミュジカルを創設。
1958年よりドイツのバーデン=バーデンにある南西ドイツ放送交響楽団を、病気のハンス・ロスバウトの代役として指揮し本格的に活動を開始。この頃からバーデン=バーデンが気に入り居住するようになる。
1963年、フランス国内で初めてアルバン・ベルクの「ヴォツェック」を指揮者として演奏した。
1967年には、健康に陰りが見え始めたジョージ・セルをカバーする目的でクリーヴランド管弦楽団の首席客演指揮者に就任。
同年、大阪国際フェスティバル(バイロイト・ワーグナー・フェスティバル)で初来日。『トリスタンとイゾルデ』(トリスタン:ヴォルフガング・ヴィントガッセン、イゾルデ:ビルギット・ニルソン、マルケ王:ハンス・ホッター、管弦楽:NHK交響楽団)を指揮した。
1969年、『プリ・スロン・プリ』の自作自演を行い録音。
1970年にはクリーヴランド管弦楽団とともに2度目の来日。来日した際のレセプション会場で、体が不自由でサングラスをして歩く志鳥栄八郎(音楽評論家、1926年1月24日-2001年9月5日)を見たブーレーズは声をかけ、志鳥がこの体は薬害のせいだと答えたところ、「日本の厚生省は何をやっているんですか!」と怒りをあらわにしたという。
1971年からはBBC交響楽団首席指揮者とニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督を兼ねた。この組み合わせでは、1974年にニューヨーク・フィルと、1975年にBBC響と来日。
1976年から1980年にはバイロイト音楽祭に出演。パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指環』は賛否両論を巻き起こした。
その最中の1978年にIRCAMとアンサンブル・アンテルコンタンポラン創設のために指揮活動を自ら激減させた。
1979年、パリのオペラ座でアルバン・ベルクの「ルル」(フリードリヒ・ツェルハ補筆版)を初演。
1991年にIRCAM所長を辞してからは再び指揮活動を増やした。
1992年には、かつてカラヤン存命時には、バーンスタインやアーノンクールら等と同様、政治的な理由から遠ざけられたザルツブルク音楽祭に新総裁のジェラール・モルティエの尽力によって初出演、アンサンブル・アンテルコンタンポランとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。これ以降、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やシカゴ交響楽団・クリーブランド管弦楽団の定期演奏会にも招かれた。ドイツ・グラモフォンとの録音も増えた。
1995年には東京で開催された「ブーレーズ・フェスティバル」で来日。アンサンブル・アンテルコンタンポラン、シカゴ響、ロンドン交響楽団、N響を指揮した。
2002年にはロンドン響、2003年にはグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラと来日している。
2004年にバイロイトに復帰し、『パルジファル』を史上最速で指揮したが2年で降板。
2007年、マーラーの交響曲第8番『千人の交響曲』を録音。これでマーラーの交響曲全てをドイツ・グラモフォンの録音に残すこととなり、いわゆる「マーラー・チクルス」を完成させた。
2007年7月、マーラー・チェンバー・オーケストラ演奏及びパトリス・シェロー演出のヤナーチェク最後のオペラ「死の家より」を指揮。翌年DVDでも発売。ブーレーズ本人は、「この作品が人生最後のオペラ指揮となるであろう」趣旨の発言をしている。 2008年10月17日、49年ぶりにドナウエッシンゲン現代音楽祭でデビュー当時の南西ドイツ放送交響楽団を指揮。

主な録音としては、1960 - 70年代のストラヴィンスキーやバルトークの録音、1990年代に入ってからのマーラーやラヴェルなどの録音が挙げられる。二度にわたって全集制作をおこなったヴェーベルンの再評価にも尽力した。

エピソード

2001年、過去に書いた評論のなかの「オペラ座を爆破せよ」という発言により、スイス警察により一時拘留された。もちろんこの発言は音楽界の常識からすれば半世紀前の論文中の比喩表現に過ぎない。

IRCAM時代から世界の作曲界の人事はブーレーズの鶴の一言で決まると言われ、それによってIRCAMから世界の楽団にデビューした著名な作曲家は数知れない。その政治性から「作曲界のカラヤン」とも評される。 番》や、パリ管弦楽団との共演によるラフマニノフの《交響曲 第2番》がある。

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