日本の作曲家: 宮城 道雄 Michio Miyagi

宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年〈明治27年〉4月7日 - 1956年〈昭和31年〉6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。兵庫県神戸市生まれ。旧姓は菅(すが)。十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く“宮城検校”と呼ばれた。

『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。作家の内田百閒とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。


略歴

1894年(明治27年)に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮(現:同市中央区)の居留地内で生まれる。父親は広島県沼隈郡鞆町(現:福山市)の出身で分部氏の次男、母親も同県安佐郡祇園町(現:広島市安佐南区)出身である。生後200日頃から眼病を患い、また、4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることもあったが、しかし、この失明が転機ともなり音楽の道を志す。

8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校のもとに師事し11歳で免許皆伝となる。師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った。13歳の夏、一家の収入を支えるため父の滞在する朝鮮の仁川へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けた。道雄は既習の曲の演奏だけでは満足せず新規の作曲も目指し、1909年(明治42年)には14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価された。伊藤は道雄を上京させて支援することを約したが、同年に伊藤が暗殺されたため、これは叶うことは無かった。

1910年(明治43年)に朝鮮・京城(現:ソウル)へ渡って頭角を現し、1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚したのち、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止、本名の宮城姓を名乗った。1914年(大正3年)に同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった。道雄は朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本の地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねて更なる研鑽に励み、1916年(大正5年)に最高位である “大検校” の称号を受けた。1917年(大正6年)4月、晴風の招きにより上京するが程なくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した。

1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄の元へ入門した。道雄は葛原しげる、高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした。翌1920年(大正9年)5月、葛原の紹介により、箏の経験を持つ内田百閒が道雄に入門する。箏では弟子である百閒は文学面では逆に道雄の師となった。同年11月には東京の有楽座で本居長世とともに合同作品発表会を開き、この場で尺八演奏を担当した晴風が『新日本音楽大演奏会』と命名した。これは後に「新日本音楽」という邦楽と洋楽の結集による新しい日本音楽を創造することを目的とした活動になり、道雄、長世、晴風がその中心的な役割を果たし、開始されたばかりのラジオ放送や、レコード録音、初世中尾都山との演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の潮流に数多の影響を及ぼした。

1925年(大正14年)、JOAKのラジオ試験放送初日に出演する。以後、道雄は毎年の正月放送を筆頭に海外との交歓放送や国際放送、初となる放送による箏曲の講習などを実施した。これらの放送文化に対する多くの功績が認められて1950年(昭和25年)に第1回NHK放送文化賞を受賞している。1929年(昭和4年)に道雄が発表した箏と尺八の二重奏曲「春の海」は、来日したフランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメー(イタリア語版)が尺八部分をヴァイオリンに編曲し道雄との合奏がなされ、世界的な評価を得ることになった。その合奏は1932年(昭和7年)にレコードに吹き込まれ日、米、仏で発売された。「春の海」は翌年の歌会始の勅題「海辺巌」にちなんで制作されたもので、かつて道雄が瀬戸内海を船で巡った時の印象を基に、それに波の音や鳥の声、漁師の舟唄などを加えて作られた。

1930年(昭和5年)、東京音楽学校講師に赴任。1937年(昭和12年)に同校の教授となり、翌年には東京盲学校の講師も務めた。道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本を執筆した。また、門人の指導をし後進の育成に努めた。1938年には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきも行っている。戦災の悪化に伴い1944年(昭和19年)12月1日、神奈川県三浦郡葉山町の別荘へ疎開し、翌1945年(昭和20年)3月29日には栃木県の現塩谷郡高根沢町へと再疎開した。同年5月25日の山の手空襲により道雄の牛込中町の住居は焼失した 。9月6日、疎開地より引き上げる。

1948年(昭和23年)5月に中町の住居を再建し、8月には父の故郷である鞆の浦で初の演奏会を開催した 。同月、日本芸術院会員を拝命 。1951年(昭和26年)3月には国内外の道雄の門人による「宮城会」が創設された。同年4月には、箏制作者であり、また、楽器の収集家としても著名な水野佐平が開設した「丹水会館」においてこけら落としとなる演奏も行っている。1953年(昭和28年)夏、フランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得した。また、英国放送協会より「ロンドンの夜の雨」を放送初演した。

1956年(昭和31年)6月25日未明、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車「銀河」に付き添いの内弟子牧瀬喜代子と共に乗車中、午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され豊田病院(現・刈谷豊田総合病院)へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる。

道雄の死については寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えたなどの推測や一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、百閒が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知った時に、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという。実際に道雄は晩年(場慣れているはずの)自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故も経験しており(その後は義眼を入れていた)、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことを窺わせる。

墓所は東京都台東区の谷中霊園にある。命日の6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれている。一周忌に際して水野佐平は邦楽再興に奉じた道雄の死を無意味にしてはいけないと考え、所蔵していた名作筝などを自宅の「和楽荘」及び邸内の「丹水会館」に展示した。また同年には前述の事故現場近くに、宮城会・日本盲人会・刈谷市により供養塔が建立されている。

宮城道雄の功績として、箏曲の伝統に根を下ろしながら洋楽を組み込んで新しい日本の音楽を創造した点が挙げられる。道雄は生涯に大構成の合奏曲から童曲に亘る幅広い作品を400曲以上制作した。また、自作曲や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと:家庭用の琴)、大胡弓(だいこきゅう:大型の胡弓)などを発明した。他方では、1935年(昭和10年)に百閒の薦めで随筆集『雨の念仏』を執筆して以降、随筆にも才能を発揮し、これらの随筆は川端康成や佐藤春夫らから高評価を得ている。

神戸の旧居留地58番地(現:56番の三井住友銀行神戸本部ビル敷地内)に生誕地の碑が建ち、1978年(昭和53年)には道雄が晩年まで住んでいた東京都新宿区中町に “日本で最初の音楽家の記念館”「宮城道雄記念館」が設立された。その曲風に西洋音楽の息吹を感じられるのは、幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われる。

受賞等

作品

宮城道雄の作品はクラシック音楽の影響を受け、構成感(形式感)と拍節感の明晰さや、主旋律と伴奏の対比を特徴としている。例えば「さくら変奏曲」にワルツが出てくるのもこのような発想からすれば不思議なことではない。また、変奏曲というクラシック音楽のジャンルや、デュエットとかアンサンブルといった西洋的な発想を創作に取り入れていることも注目される。「ロンドンの夜の雨」はフランス印象主義音楽の影響さえ認めることが可能であり、新しいものを貪欲に取り入れたこの作曲家の学習意欲を証明している。

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