作曲家:ジャン・シベリウス Jean Sibelius

ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius, 1865年12月8日 - 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。
フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。

名前

スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった[注 1]。1990年代になってシベリウスの本当の(受洗時の)名前の順がヨハン・クリスティアン・ユリウスであることが判明した。彼自身がヨハン・ユリウス・クリスティアンという順を用いており、大半の文献もこれに倣っている。

名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため本項では「ジャン」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。

人物

作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には、『フィンランディア』、『カレリア組曲』、『悲しきワルツ』、ヴァイオリン協奏曲、『クレルヴォ交響曲』、『トゥオネラの白鳥』(『レンミンカイネン組曲』より)などがある。これ以外の作品には自然、スカンジナビアの神話、フィンランドの民族叙事詩に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への付随音楽、オペラ『塔の乙女』、室内楽曲、ピアノ曲、フリーメイソンの儀式のための音楽、21曲の合唱曲がある。

1920年代の半ばまでは多作な作曲家であったが交響曲第7番(1924年)、付随音楽『テンペスト』(1926年)そして交響詩『タピオラ』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった交響曲第8番をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。

フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。シベリウス生誕150周年となった2015年には、ヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された。

生涯

1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれる。父クリスチャンは医師であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をした。
1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』。
1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。
1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏するピアノソナタなどに直接触れる。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事した。
1891年にクレルヴォ交響曲作品7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に、独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後はその一部が3度演奏されるにとどまり、生存中全曲が演奏されることはなかった。
1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。後に六女をもうけるも、一人は2歳で他界。
1899年に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『フィンランディア』作品26として独立し、人気を博した。
1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに「アイノラ」を建てる。
1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。
1915年、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために、交響曲第5番が作曲された。
1915年この頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。
1923年の交響曲第6番作品104、1924年の交響曲第7番作品105、1925年の交響詩『タピオラ』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。
1957年にヤルヴェンパーで脳出血により没。91歳。ヘルシンキの大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた。
その後彼の肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。

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