作曲家:モーリス・ラヴェル Maurice Ravel

ジョゼフ=モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 発音例, 1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家。

バスク系フランス人であり、『スペイン狂詩曲』・バレエ音楽『ダフニスとクロエ』・『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。

生涯

1875年にフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれる。生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面している建物のように完全にオランダ様式を呈して、サン=ジャン=ド=リュズの港に面して建っている。母マリーはバスク人だった。一方、父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家だった。家族がパリへ移住した後、弟エドゥアールが生まれた。

音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年の間、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たしたラヴェルは、1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。2回目の挑戦となった1901年にはカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった。1902年、1903年は本選において入賞を逃し、1904年はエントリーを見送った。翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、フォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明した。さらに、この時の本選通過者6名全てがパリ音楽院作曲科教授であり審査員シャルル・ルヌヴーの門下生だったことはコンクールの公正さの点からも問題視された。この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった。

1907年、歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると、批判はおさまった。そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。『ダフニスとクロエ』作曲中の1909年にはラヴェルは国民音楽協会と決別し、シャルル・ケックランらと現代的な音楽を新しい音楽の創造を目指す団体、独立音楽協会を旗揚げした。

第一次世界大戦中、ラヴェルはパイロットとして志願したが、年齢とその虚弱体質からその希望は叶わず、1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものだった。

大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまった。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。

1920年1月、ラヴェルはレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。

1920年代のフランスでは、エリック・サティを盟主とする「フランス6人組」の登場や、複調・無調・アメリカのジャズなど、新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、1923年には『ヴァイオリンソナタ』のスケッチしか残せていない。

1928年、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、ラヴェルは黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になった。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。

アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲 ト長調』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲である。

ラヴェルは1927年頃から軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある)。

1933年11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃には手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していた。コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったが、いっこうに健康が回復せず、病状は悪化の一途をたどった。1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させたりで、周囲を困惑させた。

病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられる。ある時は友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語った後、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べたという。

同時期、ラヴェルは失語症などの権威だった神経学者テオフィル・アラジョアニヌの診察を受けるが、博士は失語症や理解障害、観念運動失行など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、1937年12月17日に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけだった。元々万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入。手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に息を引き取った。62歳だった。会葬にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。

晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーにあるラヴェルの最後の家は、現在ラヴェル博物館(Musee Maurice Ravel)となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。
ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子供をもうけなかったためラヴェル家の血筋はエドゥワールの死(1960年)をもって途絶えた。

作風

オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評価される精緻な書法が特徴。

母方の血筋であるスペインへの関心は様々な楽曲に見出だされ、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。

ラヴェルはドビュッシーと共に印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。

ラヴェル自身はモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はエマニュエル・シャブリエ、エリック・サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。更に先述のようにスペイン音楽・ジャズに加え、アジアの音楽及びフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院・タヒチ島の人々の踊り・インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。

ラヴェルはまた、リヒャルト・ワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることを好んだ。

『ピアノ協奏曲ト長調』について、ラヴェルは、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がそのモデルとして役立ったと語った。彼は1906年頃に協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」。直訳だと「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもりだったが、それは完成されなかった。ノートからの残存や断片で、これがバスクの音楽から強い影響を受けていることを確認できる。ラヴェルはこの作品を放棄したが、かわりにピアノ協奏曲など他の作品のいくつかの部分で、そのテーマとリズムを使用している。

ラヴェルは、「アンドレ・ジェダルジュ(Andre Gedalge)は私の作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジェダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。

後世への影響

「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」と言うのがラヴェルの考え方だった。1928年、アメリカとカナダの25都市の大きなコンサートホールでピアノ公演を行なうために渡米した際も、アメリカの作曲家達に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と述べており、一説によればオーケストレーションの教えを乞うたジョージ・ガーシュウィンに対して「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったといわれている。

彼の曲を得意とするピアニストはマルグリット・ロンや彼女の弟子のサンソン・フランソワなどがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があったヴラド・ペルルミュテールは、ラヴェルの意図を忠実に再現したラヴェル弾きと言われる。

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