作曲家: カール・ニールセン Carl August Nielsen

カール・ニールセン(またはニルセン、 Carl August Nielsen , 1865年6月9日 - 1931年10月3日)は、デンマークの作曲家

デンマークでは最も有名な作曲家であり、同国を代表するにとどまらず北欧の重要な作曲家として知られている。

経歴

フュン島の貧しいながらも音楽的才能の豊かな家庭に育ち、早くから音楽的能力を示した。はじめは軍楽バンドで演奏したが、その後の1884年から1886年12月にかけてコペンハーゲンのデンマーク音楽アカデミーに通った。作品1となる弦楽合奏のための小組曲が初演されたのは1888年、作曲者が23歳の時であった。翌年から16年間にわたりヨハン・スヴェンセンが指揮者を務めるデンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリンを務め、この間にジュゼッペ・ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を演奏している。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストに就き、以降没するまでその職にとどまった。

今でこそ彼の交響曲、協奏曲、合唱曲は国際的に高く評価されているが、ニールセンのキャリアと私生活は多くの困難を抱えており、それらはしばしば音楽にも表われている。1897年から1904年の間に書かれた作品は彼の「心理」期の作品であるとされることもあり、主に彫刻家のアネ・マリーイとの荒れた結婚の結果生まれたものである。ニールセンはとりわけ6曲の交響曲、木管五重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、フルート協奏曲、クラリネット協奏曲が著名である。デンマークではオペラ『仮面舞踏会』や多くの歌曲が欠くことのできない国の財産となっている。初期にはブラームスやグリーグといった作曲家に触発される形で音楽を書いていたが間もなく自身独自の様式を発展させ、まず発展的調性(英語版)の実験を行い、後には当時まだ一般的だった標準的作曲法に比べると遥かに急進的な道を選んでいった。最後の交響曲となる交響曲第6番は1924年から1925年にかけて作曲された。その6年後に心臓発作でこの世を去り、亡骸はコペンハーゲンのヴェストレ墓地(英語版)に埋葬された。

生前のニールセンの評価は国内と国外の両方で傍流の音楽どまりであった。1960年代以降にレナード・バーンスタインらを通じて人気の高まりを見せ、ようやく彼の作品は国際的なレパートリー入りを果たすことになる。デンマークでは2006年に文化省が国の最も偉大な音楽12曲を選定した際に、ニールセンの作品から3曲が選ばれて彼の名声は折り紙付きのものとなった。彼が残した大衆向けの歌曲や合唱曲はデンマークの学校や家庭などに広く普及し、今日でも歌われている。デンマークの100クローネ紙幣には長年にわたり彼の肖像画が描かれていた。オーデンセのカール・ニールセン博物館には彼と彼の妻の生涯が記録として残されている。1994年から2009年の間にデンマーク政府の資金援助を受けたデンマーク王立図書館が『カール・ニールセン・エディション』を完成した。これによりそれ以前には出版されたことのなかった多くの作品を含む、ニールセンの全作品の背景情報と楽譜がオンライン上で無料で入手できるようになった。

同国の作曲家にルドルフ・ニールセン(1876年1月29日 - 1939年10月16日)がいるが、縁戚関係はない。同年生まれの北欧の作曲家に、フィンランドのジャン・シベリウスがいる。

年譜

音楽

デンマーク王立図書館が2015年にオンラインで『カール・ニールセン作品目録』(Catalogue of Carl Nielsen's Works; CNW)を公表しており、ニールセンの作品はこの目録に基づきCNW番号で呼ばれることもある。CNW目録は1965年にダン・フォウとトーベン・スコウスボーが編纂した目録(FS番号)を置き換えるためのものである。

音楽様式

音楽評論家のハロルド・ショーンバーグは著書『大作曲家の生涯』の中でニールセンの作品の幅広さ、力強いリズム、惜しみない管弦楽法、そして彼の個性を強調している。ジャン・シベリウスと比較しつつ、ショーンバーグはニールセンには「同じだけの発展性、遥かに大きな力、そしてより普遍的なメッセージ」が備わっていると考えている。オックスフォード大学音楽科教授のダニエル・M・グリムリーはニールセンを「20世紀の音楽でも指折りの陽気で、人生肯定的、そして不器用な声」であるとし、その理由が彼の作品の「旋律の豊かさと和声の活力」のおかげであると述べている。『Carl Nielsen's Voice: His Songs in Context』の著者であるアン=マリー・レイノルズは「彼の音楽の全ては声楽を発祥と」しており、歌曲を書き続けたことがニールセンの作曲家としての発展に強く影響を与えた、というロバート・シンプソンの見方を引用している。

デンマークの社会学者であるベネディクデ・ブリンガ(Benedikte Brincker)は、母国におけるニールセンと彼の音楽に対する認識が国際的な評価とはかなり異なっていると見ている。彼の民謡への興味と背景知識はデンマーク人に特別共鳴するのである。さらにこの傾向は1930年代の愛国運動期、及び第二次世界大戦中に高められた。同時期にはデンマーク人にとって歌うことが敵のドイツ人たちと自分たちを識別する重要な根拠だったのである[38]。ニールセンの歌曲はデンマークと文化と教育の中で引き続き重要な位置を占めている。音楽学者のニールス・クラッベは、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの寓話に関連づけ、デンマークにおける大衆のニールセン像は「みにくいアヒルの子症候群」のようだと表現する。すなわち「貧しい少年が(中略)逆境と倹約を経験し(中略)コペンハーゲンへと乗り込み(中略)無冠の王者の地位を獲得するに至るのだ。」このため、デンマーク国外でのニールセンは主として管弦楽作品とオペラ『仮面舞踏会』の作曲家である一方、国内ではそれ以上に国民の象徴なのである。2006年にデンマーク文化省が12曲の最も偉大なデンマークの音楽作品を発表した際には、これらの2つの側面が公式にひとつにまとめられた;選ばれたのは『仮面舞踏会』、交響曲第4番、そして2つのデンマークの歌だったのである。クラッベは修辞的な問いかけを行う。「ニールセンの中の『国民性』は特定の主題、和声、音響、形式その他の音楽の中に表出され得るものなのだろうか、それともそれは純粋に受容史から形作られるものなのだろうか。」

ニールセン本人は後期ロマン派のドイツ音楽や音楽における愛国心に対して曖昧な態度を取っていた。1909年にオランダの作曲家であるユリウス・レントゲンに宛ててこう綴っている。「近頃のドイツ人の技術面での技量には驚かされています。複雑化をこうして嬉々として行っていますが、全てそのもの自身の疲弊をもたらすに違いないと思わずにはいられません。私は純粋に古風な美徳に則った全く新しい芸術の到来を予見しています。ユニゾンで歌われる歌についてどう思われますか。我々は立ち戻らねばなりません(中略)純粋さ、清澄さへと。」一方で、1925年には次のように記している。「愛国心ほどに音楽を破壊するものはない(中略)それに頼みに応じて愛国的音楽を生み出すことなど出来ようがない。」

ニールセンはルネサンスのポリフォニーを詳細に研究しており、彼の音楽に含まれる旋律と和声にはこれによって説明できるものもある。3つのモテット 作品55がこの興味を表す好例である。デンマーク国外の批評家にとっては、ニールセンの音楽は当初新古典主義的な響きを持っていたものの、彼が独自の取り組みを発展させるに従い次第に現代的になっていった。それは作家で作曲家のロバート・シンプソンが言うところの発展的調性、すなわちある調から別の調への移行である。概してニールセンの音楽は開始の調とは異なる調性で終結する可能性を有するものであるが、時にそれは交響曲においてなされたのと同じく苦心の結果なのである。一方、彼の民謡での活動がどれほどそうした要素に負うところがあるのかについては論争となっている。一部の評論家は彼のリズム、アッチャッカトゥーラやアッポッジャトゥーラ、もしくは作品中で頻用される短七度、短三度を指してデンマークの典型であると述べている。作曲者本人は次のように記した。「私が思うに、まず音楽へのより深い関心を呼び起こすものは音程である。(中略)春にカッコーの声を聞く我々に驚きと喜びをもたらすものはその音程なのである。もし鳴き声がひとつの音だけでできていたとしたら魅力は減じていたことだろう。」

音楽様式に対するニールセンの哲学は、おそらく1907年に作曲家のクヌーズ・ハーダ宛の書簡に書かれた助言に要約されている。「あなたには(中略)流麗さがあり、いまのところはとても素晴らしいものです。しかし、親愛なるハーダ氏、私はあなたに何度でも助言します。『調性、明晰さ、力強さ』です。」

交響曲

デンマーク国外では、ニールセンと聞いて最も強く連想されるのはおそらく1892年から1925年にかけて作曲された6曲の交響曲だろう。交響曲には多くの共通点がある。全て演奏時間がちょうど30分強、オーケストレーションの要は金管楽器が握っており、どの作品も珍しい調性変化をみせ、それが劇的な緊張感を高めている。交響曲第1番(作品7 1890年-1892年)はグリーグやブラームスの影響を示す一方で、冒頭数小節からニールセンの個性が発揮されている。唐突かつ頻繁な転調を伴う独特な和声進行や半音階的な旋律を用い、主調がト短調であるにも関わらず第1楽章の第1主題冒頭と第4楽章最後の和音はハ長調である。交響曲第2番(作品16 1901年-1902年)では人間の性格を展開させることに乗り出している。その着想は宿屋にあった四体液説を表す絵画から得たものだった。4つの楽章にはそれぞれ四気質に基づく発想記号が記され、この曲が標題音楽であるか否かが議論になる。同時期に作曲されたオペラ『サウルとダヴィデ』と作曲手法や表現の点で共通点が見られる。

イングランドの作曲家であるロバート・シンプソンは、交響曲第3番の表題である『広がり』(作品27 1910年-1911年)を「外側へ向かう心的領域の拡大」として理解している。この作品では2つの調性を同時に対比させるというニールセンの技法が遺憾なく発揮されており、穏やかな場面でソプラノとバリトンが歌詞を載せずに歌う部分がある。ロバート・シンプソンは第1楽章を「競技的な3拍子」と評した。第一次世界大戦中に書かれた交響曲第4番『滅ぼし得ざるもの』(作品29 1914年-1916年)は、数ある交響曲の中でも演奏頻度で最上位に位置する。終楽章では舞台の端と端に置かれた2つのティンパニが一種の音楽的戦いを演じる。ニールセンはこの交響曲を「生の力、生きんとする消すことのできぬ意志」と表現した。

同じく頻繁に演奏機会のある交響曲第5番(作品50 1921年-1922年)では、秩序と混乱の間のもう一つの戦いが提示された。小太鼓奏者は拍子を無視してアドリブにより音楽を破壊するかの如く管弦楽に割り込む役割を課される。1950年のエディンバラ国際フェスティバルでエリク・トゥクセンが指揮するDR放送交響楽団によって演奏された際にはセンセーションを引き起こし、スカンジナビア外でのニールセン音楽に対する関心の火付け役となった。1924年から1925年にかけて書かれた交響曲第6番(作品番号なし)は『素朴な交響曲』と題されている。調性の語法はニールセンの他の交響曲に類似しているものの、曲は連続するカメオ、いくらかの悲しみ、いくらかの怪奇、いくらかの諧謔へと発展していく。

オペラ、カンタータ

ニールセンの2つのオペラは様式の点で大きく異なっている。1902年に書かれた4幕構成の『サウルとダヴィデ』はアイナ・クレスチャンスン(英語版)のリブレットに基づき、サウルの若いダビデへの嫉妬という聖書の説話を物語る。一方、『仮面舞踏会』はルズヴィ・ホルベアの喜劇を下敷きにヴィルヘルム・アナスン(英語版)が著したデンマーク語のリブレットを基に、1906年に作曲された3幕形式のコミック・オペラである。『サウルとダヴィデ』は1902年11月の初演で否定的な評価を受け、1904年の再演時にも良くなることはなかった。対照的に1906年11月の『仮面舞踏会』は目覚ましい成功となり、最初の4か月の間に25回の追加公演が行われた。デンマークの国民的オペラと看做されるようになった本作の成功と人気は母国で長く続いており、その成功の源は多くの有節歌曲形式の歌、踊り、そして通底する「古きコペンハーゲン」の空気にある。

ニールセンは数多くの合唱作品を作曲しているが、それらの大半は特定の行事のために書かれたものであり滅多に再演されることはない。しかし、3曲のしっかり作られた独唱者、合唱と管弦楽のためのカンタータはレパートリーに定着している。初期の多声的合唱様式を学んだ後には『愛の賛歌』 作品12(1897年)を作曲した。ナナ・リプマン(Nanna Liebmann)は『Dannebrog』紙上でこの作品がニールセンの「決定的な勝利」であると評し、『Nationaltidende』紙のアングル・ハメレク(Angul Hammerich)は進歩した清澄さと純粋さを歓迎した。しかし『Berlingske Tidende』紙の批評家H.W.シュデ(Schytte)はニールセンが見栄を張ってデンマーク語ではなくラテン語の歌詞を用いたのではないかと考えた。『眠り』 作品18はニールセンの2番目に知られた合唱作品であり、睡眠の様々な段階に音楽を付した作品である。悪夢も中央の曲として含まれており、通常聞かれないような不協和音を含むこの部分は1905年3月の初演時には評論家に衝撃を与えた[57]。1922年に完成された『フューンの春』 作品42はフューン島の田舎の美しさを称揚していることから、ニールセンの全作品の中で最もデンマークらしいと言及されている。

協奏曲

ニールセンは3作品の協奏曲を作曲している。1911年、中期の作品にあたるヴァイオリン協奏曲 作品33はヨーロッパのクラシック音楽の伝統の枠組みの中に位置づけられる。対して、後期作品となる1926年のフルート協奏曲(作品番号なし)と続く1928年のクラリネット協奏曲 作品57は1920年代のモダニズムの影響を受けており、デンマークの音楽学者であるヘアバト・ローセンベア(Herbert Rosenberg)の言によれば「いかにして必要ではないものを避けるかを心得た、極めて経験豊富な作曲家」の作品である。以降のニールセン作品とは異なり、ヴァイオリン協奏曲は明確な、旋律指向性の新古典的構造を持っている。全2楽章のフルート協奏曲はニールセンの木管五重奏曲(1922年)を初演したコペンハーゲン木管五重奏団に所属していたフルート奏者のホルゲル・ギルベルト=イェスペルセンのために書かれた。ヴァイオリン協奏曲のかなり伝統的な様式に比べると、フルート協奏曲は当時のモダニズムの潮流を反映したものとなっている。例えば、第1楽章はニ短調、変ホ短調、ヘ長調の間を移り変わった後、フルートがホ長調のカンタービレの主題によって前面に出てくる。クラリネット協奏曲もコペンハーゲン木管五重奏団メンバーであったオーウ・オクスンヴァズのために作曲された。ニールセンは楽器と奏者の可能性を最大まで使い尽くしている。単1楽章制のこの作品には独奏者と管弦楽の間、そしてヘ長調とホ長調という2つの主要調性の間での争いがある。コペンハーゲン管楽五重奏団のメンバー全員のために5つの協奏曲を書くことも計画されていたが、作曲者の死によりフルート協奏曲とクラリネット協奏曲の2曲で終わっている。

木管協奏曲にはニールセンが「対象化」(objektivering)と呼んだものの多くの用例が見られる。彼がこの用語により意味したのは、楽譜により拘束される範疇において楽器奏者に解釈と演奏の自由を与えるということだった。

管弦楽作品

オーケストラ用として書かれたニールセンの最初期の楽曲は瞬く間に成功した弦楽合奏のための組曲(1888年)であった。この作品はグリーグやスヴェンセンが表現したようなスカンディナビアのロマンを呼び起こす楽曲である。この楽曲は初めての真の成功作であったばかりでなく、1か月後のオーデンセでの再演時に彼自身が初めて指揮した自作でもあり、ニールセンのキャリアにおける重大事件となった。

序曲『ヘリオス』 作品17(1903年)はアテネへの滞在時に受けた霊感によって書かれた、エーゲ海から昇り沈む太陽を描写した作品である[66]。譜面は管弦楽の手本であり、この作品はニールセンの楽曲の中でも有数の人気曲となっている[67]。『サガの夢』 作品39(1907年-1908年)は、アイスランドの『ニャールのサガ』に題材を採った管弦楽のための交響詩である。ニールセンは次のように述べている。

特に、それぞれ並行して非常に自由に進んでいくオーボエ、クラリネット、ファゴット、フルートのためのカデンツァがあり、和声的繋がりもないですし私は拍子を指定していません。それらはまるでちょうど4つの思考の流れのようで、各々のやり方で進んでいき - 演奏ごとにランダムに異なって - 休止の箇所で出会うのです。まるで合流地点の水門に流れ込むかのように。

弦楽オーケストラのための『若き芸術家の棺の傍らで』は1910年1月にデンマークの画家オーロフ・ハートマン(英語版)の葬儀のために作曲され、ニールセン自身の葬式においても演奏された[69]。『パンとシランクス』はオウィディウスの『変身物語』に触発されて書かれた9分の活発な交響詩であり、1911年に初演された。狂詩曲風序曲『フェロー諸島への幻視旅行』はフェロー諸島の民謡を基に作られているが自由に作曲された箇所も含まれている。

舞台用管弦楽曲には『アラジン』(1919年)と『母』 作品41(1920年)がある。『アラジン』はコペンハーゲンでのエーダム・ウーレンスレーヤ(英語版)のおとぎ話の上演に合わせて作曲された。楽曲全体は演奏時間80分を超え、オペラを除くとニールセン最長の作品であるが、「東洋的行進曲」、「ヒンドゥーの踊り」、「黒人の踊り」からなる短い管弦楽組曲版がしばしば演奏される。『母』は南ユトランドのデンマーク再編入を祝して書かれ、1921年に初演された。曲はその際に生まれた愛国的な韻文に対して作曲されている。

室内楽曲

ニールセンは数曲の室内楽曲を作曲しており、一部の曲は世界的なレパートリーの中で高い地位を保っている。1922年に特にコペンハーゲン木管五重奏団のためとして書かれた木管五重奏曲は彼の作品の中でも有名なもののひとつである。ニールセンの木管楽器に対する愛着は彼の自然に対する愛情と密接に関係しているのだと説くシンプソンは、次のように記している。「彼は人間の性質にも強い関心を抱いており、意図的に5人の友人に当て書きされた木管五重奏曲ではそれぞれのパートが各奏者の個性に合うように抜け目なくしつらえられているのである。」

ニールセンは弦楽四重奏曲を4曲作曲している。第1番 作品13(1889年作曲、1900年改訂)の終楽章には「概要」(Resume)と題された部分が付されており、第1、第3、第4楽章の主題がまとめて奏される。第2番 作品5は1890年、第3番 作品14は1898年に発表された。音楽史家のヤン・スマツニー(Jan Smaczny)が唱えるには、この作品では「テクスチュアは自信に満ちて、過去の作品よりもはるかに独創性が出ており(中略)[この四重奏曲からは]ニールセンが(中略)後期交響曲の発展と並ぶような形で当ジャンルを追求しなかったことがこの上なく悔やまれる[76]。」第4番(1904年)の当初の評判は賛否の入り混じったもので、評論家にはこの作品のよそよそしい様式をどう捉えてよいか分からなかった。曲は数回の改訂を経ており、1919年に最終版へ作品44が与えられた。

ニールセンは彼自身の楽器であったヴァイオリンを用いて4曲の大規模な室内楽曲を作曲した。ヴァイオリンソナタ第1番 作品9(1895年)では頻繁に表れる突然の転調やそっけない主題など、一般的な方法論からの乖離が初演時にデンマークの評論家を当惑させた。ヴァイオリンソナタ第2番は過去に彼のヴァイオリン協奏曲を初演していたピーザ・ムラのために1912年に書かれた。この作品の第1楽章と終楽章はト短調であるとされているにもかかわらず異なる調で終止しており、ニールセンの発展的調性を示す一例となっている。評論家のイミーリウス・バンギアトはアクセル・ゲーゼによって行われた初演について次のように書いている。「美しく、万全な線 - 音の流れ - に初めの部分で特に素晴らしい第2主題、そして後半部の純粋で高潔な領域が捉えられている、といった全体的な印象であった。」他の2作品は独奏ヴァイオリンのための作品である。『前奏曲、主題と変奏』 作品48(1923年)はテルマーニー・エミルのために書かれ、シャコンヌ 作品32と同様にヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽に触発されたものである。『前奏曲とプレスト』 作品52(1928年)は作曲家のフィニ・ヘンリクスの60回目となる誕生日の贈り物として作曲された。

鍵盤楽曲

主にピアノに向かって作曲するようになったニールセンであったが、40年の歳月の中でも直接的なピアノのための楽曲は時おり作曲する程度であった。そうした楽曲は独特なスタイルであることが多く、そのために国際的に受け入れられるのに時間がかかった。ニールセンのピアノの腕前はというと、おそらくオーフスの国立公文書館に「カール・ニールセン」と記されて3つの蝋管に保存されていたものから判断するに、平凡だったようである。ピアニストのジョン・オグドンが1961年に行った録音への論評として、ジョン・ホートンは初期作品について「ニールセンの技巧の引き出しは彼の構想の壮大さにほとんど見合っていない」と言及している。一方で後期作品は「彼の交響作品に比肩し得る主要作品群」であると看做していた。非ロマン的な『交響的組曲』 作品8(1894年)は後世の評論家によって「確立されたあらゆる音楽的慣習を前に、まっすぐ固く握りしめられた拳に他ならない」と評されている。ニールセン自身の言によれば『シャコンヌ』 作品32(1917年)は「真に大きな作品であり、効果的であると思っている。」この作品はバッハ、特に独奏ヴァイオリンのためのシャコンヌのみならず、ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス、フェルッチョ・ブゾーニらによるピアノのためのバッハ作品のヴィルトゥオーゾ編曲にも触発されている。同年にはやはり規模の大きな『主題と変奏』 作品41が書かれている。評論家はこの作品にブラームスとマックス・レーガーの影響を認めているが、ニールセンは友人に宛てた手紙の中で次のように述べている。「大衆はレーガー作品を全く理解することができなくなるように思われますが、それでも私は彼の労作群に強い同情を覚えるのです(中略)リヒャルト・シュトラウスに対するよりもずっと。」

オルガン曲は全て後期作品である。デンマークのオルガニストであるフィン・ヴィーザウーはニールセンがオルガン運動(Orgelbewegung)、並びにハンブルクの聖ヤコビ教会(英語版)に建造されたアルプ・シュニットガー製のオルガンの前面パイプが、1928年から1930年にかけて刷新されたことに興味を掻き立てられたのだと唱えている。ニールセン最後の主要作品となった『コンモツィオ』 作品58は演奏に22分を要するオルガン作品で、彼の死のわずか数か月前にあたる1930年6月から1931年2月にかけて作曲された。

歌曲と聖歌

長年にわたりニールセンは290を超える歌曲や聖歌を作曲した。それらの大半はよく知られたデンマークの著作家であるN.F.S.グロントヴィ、ベアンハート・スィヴェリーン・インゲマン(英語版)、ポウル・マルティン・ムラ(英語版)、エーダム・ウーレンスレーヤ、イェベ・オーケーア(英語版)らの韻文や詩文を用いたものである。デンマークではこれらの作品の多くが今日でも大人と子どもの両方に依然として人気である。「国を一番に代表する作曲家の作品のうち最も代表的な要素」であると看做されているのである。1906年、ニールセンはそうした歌曲が自国民に重要であることを説明している。

ある種の旋律の抑揚に対し、我々デンマーク人は避けがたく、例えばインゲマン、クレスチャン・ヴィンダ(英語版)、もしくはドラクマン(英語版)の詩を想う。そして、我々はしばしば歌や音楽の中にデンマークの風景の香りや田舎の映像を感じ取るようなのである。しかし我々の田園風景、我々の画家、我々の詩人を知らないか、もしくは我々の歴史を我々と同じような身近さで知らない外国人には、我々に共感的理解を伴って聞こえ、震えをもたらすそれが何であるのか理解することはまったくもって不可能なのだ。

非常に重要なのは1922年の『高校民謡歌曲集』(Folkehojskolens Melodibog)への参加で、ニールセンはトオマス・ラウプ、オーロフ・レング、トーヴァル・オーゴーと共同で編者のひとりとして加わった。この本には編者が作曲した約200曲を含む計600曲あまりの旋律が収められ、デンマーク民謡文化に不可欠な歌の集いのレパートリーとすべく編まれた。歌曲集は絶大な人気を博し、デンマークの教育カリキュラムにも盛り込まれた。第二次世界大戦中のドイツ占領下ではこれらの旋律による大規模な歌の集いがデンマークの「精神的再武装」の一端を担い、1945年の終戦後にはある作家によりニールセンの貢献は「我々の愛国的歌曲の宝箱にしまわれた宝石を輝かせた」と評された。このことは今なおデンマークにおける彼の評価の重要な要素であり続けている。

作品エディション

1994年から2009年の間に4000万クローネ以上の費用を投じ、デンマーク政府よりニールセン作品の新訂全集『カール・ニールセン・エディション』が委嘱された。オペラ『仮面舞踏会』や『サウルとダヴィデ』、そして『アラジン』の完全版など、以前は手稿譜の写しが演奏に用いられていた多くの作品にとってはこれが初めての印刷譜の出版となった。現在、楽譜は全てデンマーク王立図書館のウェブサイトから無料で入手可能である。同図書館はニールセンの草稿の大半も収蔵している。

Wikipedia

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