作曲家:フランク・マルタン Frank Martin

フランク・マルタン(Frank Martin、1890年9月15日 - 1974年11月21日)はフランス語系スイス人のプロテスタントの作曲家。オランダでも活躍した。


生涯

フランク・マルタンはプロテスタントの牧師シャルル・マルタンの子としてジュネーヴで生まれた。10人きょうだいの末っ子。就学前よりピアノを弾き、即興演奏をたしなむほどの早熟ぶりであった。9歳のとき、まだ正規に和声法や歌曲形式を学ばずに歌曲を作曲するが、いずれも有節歌曲であった。12歳のときにバッハのマタイ受難曲の演奏に接して強い感銘を受け、バッハを精神的な師として仰ぐようになる。

2年間ジュネーヴ大学で数学と物理学を学ぶかたわら、作曲とピアノをヨーゼフ・ラウバーに師事。1918年から1926年までチューリヒやローマ、パリを転々と過ごした。この頃の作品は、独自の音楽語法の探究であり、まだフランクやダンディ、ラヴェルの影響下にあった。

1926年にジュネーヴ室内楽協会 (Societe de Musique de Chambre de Geneve) を設立し、ピアニストやチェンバロ奏者として10年間の活動を続ける。この間に、ジャック=ダルクローズ研究所で音楽理論や即興演奏を教え、ジュネーヴ音楽院で室内楽を指導した。1933年から1940年までテクニコン・モデルヌ・ド・ミュジック (Technicum Moderne de Musique) 校長に、1942年から1946年までスイス音楽家協会総裁に就任。
1946年よりオランダに移住。スイス時代に公務に追われて専念できなかった作曲に、多くの時間を割くようになる。アムステルダムに10年暮らした後、ナールデンに定住した。
1950年から1957年までケルン市立高等音楽学校で作曲の教鞭を執る。その後は教育活動を放棄し、作曲に集中するが、その合間に室内楽の演奏旅行や指揮にも携わり、録音も残した(いずれの場合もたいていは自作に関係してのものだった)。
絶筆のカンタータ「かくて生は勝利す Et la Vie l'Emporta 」を仕上げてから10日後にナールデンで世を去った。

作品

大規模な交響曲(1937年)や、2つのピアノ協奏曲、クラヴサン(チェンバロ)協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲のほか、作者自身が「バラード」と名づけた一連の協奏的作品がある。
マルタンは、シェーンベルクの十二音技法を独自に発展させた。ただし、調性破壊や表現拡張の手段としてではなく、あくまで旋律の可能性を豊かにするための道具立てと見なしていた。このためマルタンは調性に固執し、無調には反対した。

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