作曲家: アレクサーンドル・グラズノーフ Aleksandr Glazunov

アレクサーンドル・コンスタンティーノヴィチ・グラズノーフ Aleksandr Konstantinovich Glazunov, 1865年8月10日 - 1936年3月21日)はロシア帝国末期およびソビエト連邦建国期の作曲家・音楽教師・指揮者。

ペテルブルク音楽院の院長を1906年から1917年にかけて務め、ペトログラード音楽院およびロシア革命後のレニングラード音楽院への改組を担った。1930年まで院長職を任されてはいたが、1928年にソ連を脱出してからというもの、二度と帰国しなかった。任期中の門弟で最も有名な一人がショスタコーヴィチである。
グラズノフは、ロシア楽壇における民族主義(ペテルブルク楽派)と国際主義(モスクワ楽派)を巧みに融和させた点において重要である。グラズノフはバラキレフの国民楽派の直系であり、ボロディンの叙事詩的な壮大さに靡きながらも、その他多くの影響を吸収した。例えば、リムスキー=コルサコフの巧みな管弦楽法や、チャイコフスキーの抒情性、タネーエフの対位法の手腕などである。しかし、時として形式主義が霊感を翳めそうになったり、折衷主義が独創性の痕跡を作品中からすっかり拭い去りそうになったりするという弱点も見られる。プロコフィエフやショスタコーヴィチのような新進作曲家は、実のところグラズノフの作品は時代遅れだと看做していたが、それでもグラズノフが、変化と波瀾の時期において、依然として際立った名声と不動の影響力をもった芸術家であるということは認めていた。

略歴

神童

サンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家庭に生まれる(グラズノフの父親は、プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』の版元であった)。9歳でピアノの、13歳で作曲の学習を開始。ロシア五人組のかつての指導者バラキレフは、グラズノフ青年の才能を認め、その作品をリムスキー=コルサコフに注目させた。「バラキレフは、14歳か15歳の高校生の作品を、何気なく私のところに持ってきた。それがサーシャ・グラズノフの曲だった。あどけない手法で作曲された管弦楽曲だった。青年の才能は疑いようもなく明らかであった」とリムスキー=コルサコフは回想している。バラキレフは、その後まもなく1879年12月に、グラズノフ青年をリムスキー=コルサコフに紹介した。
リムスキー=コルサコフは、自分はグラズノフの個人教師であると考えていた。「彼の音楽的な成長は、日ごとにではなく、文字通り時間ごとに進んだ[5]」とリムスキー=コルサコフは記している。二人の関係も変化した。1881年の春までに、リムスキー=コルサコフはグラズノフを門弟としてでなく、年少の同僚と看做すようになった。このような発展は、リムスキー=コルサコフの側で、同年春に他界したムソルグスキーの精神的な代わりを見つけなければならないという念願から起こったのかもしれないが、同時に、グラズノフの最初の交響曲の進展を見守っていて起きたのかもしれない。リムスキー=コルサコフはグラズノフの《交響曲 第1番「スラブ風」》の初演を指揮した。グラズノフが16歳のときである。なかんずくボロディンとウラディーミル・スターソフが作品と作曲者を激賞した。

名声

グラズノフはやがて国際的な称賛を受けるようになる。それでも1890年から1891年まで創作上の行き詰まりを経験している。この期間を抜け出すと、新たに成熟期へと進み、1890年代に3つの交響曲、2つの弦楽四重奏曲、そしてバレエ音楽《ライモンダ》と《四季》を完成させた。1905年にペテルブルク音楽院の院長に選出されるまでの間グラズノフは創造力の頂点を極めた。この間の最も有名な作品に、《交響曲 第8番》と、《ヴァイオリン協奏曲》がある。この頃が国際的な名声の最高潮の時期でもあった。1907年5月17日にパリでロシア史演奏会の最終日を指揮し、オックスフォード大学とケンブリッジ大学からは名誉音楽博士に任ぜられている。作曲活動25周年の節目の年には、ペテルブルクとモスクワで、全曲自作のみの祝賀演奏会が開かれた。

指揮者グラズノフ

グラズノフは1888年に指揮者デビューを果たしている。その翌年には、パリ万博で自作の《交響曲 第2番》を指揮した。1896年にロシア交響楽協会の指揮者に任命されてもいる。1897年には、ラフマニノフの《交響曲 第1番》の悲惨な初演を指揮した。後にラフマニノフ未亡人は、その時グラズノフは顔が真っ赤で酔っているように見えたという。この申し立てを肯定することはできないものの、ショスタコーヴィチ曰く「机にアルコール1瓶を忍ばせておいて、講義の合間にちびりちびりと飲み干してしまう」ような男には、あながち無い話でもなさそうだ。
酔っ払っていたのであろうとなかろうと、グラズノフにはその交響曲に十分なリハーサルをつけることが出来なかったのであり、指揮法に熟達することはなかったものの、それでも指揮が大好きだった。たとえ自分が指揮の才能には恵まれていないと承知していたにせよ、グラズノフは時おり自作を、特にバレエ《ライモンダ》を指揮した。時に冗談で、「私の作品を批判するのは構わないけど、私が名指揮者じゃないとか有名な音楽院の院長じゃないなんて言ったら、承知しないよ」と言ったという。
第1次世界大戦とその後のロシア内戦の困難のさなかに、グラズノフは指揮者として活動を続けた。工場や会館、赤軍の駐屯地などでコンサートを指揮した。
ベートーヴェン没後百周年記念行事において、グラズノフは解説者ならびに指揮者として大役を果たした。ソ連を離れてからは、1928年にパリで自作の夜会を指揮した。これに続いてポルトガルやスペイン、フランス、イングランド、チェコスロバキア、ポーランド、オランダ、アメリカ合衆国でも指揮台に上った。

亡命と終焉

グラズノフはボリシェヴィキ体制と、とりわけ教育相ルナチャルスキーと健全な協調関係を築いた。それでもなおグラズノフの保守主義は音楽院内部で非難された。教授陣からより進歩的な学校経営を要請され、学生からは大幅な権利の承認を要求されたのである。グラズノフはこれらの要望を、破壊的で不当であると看做した。音楽院に疲れたグラズノフは、1928年にウィーンで開かれたシューベルトの没後100周年記念行事に出席するのを好機として、国外に出たきり二度とソ連に戻らなかった。グラズノフが最終的に1930年に辞職するまで、マクシミリアン・シテインベルクが不在の院長の代理を務めた。
グラズノフはヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに定住した。ロシアを不在にしているのは、(亡命ではなく)「体調不良」のせいだと言い張っていたので、それ以外の理由で国を棄てたラフマニノフやストラヴィンスキーとは違い、ソ連における尊厳を失わずに済んだ。1929年にパリの音楽家によるオーケストラを指揮して、《四季》全曲を電気録音で遺した。同年64歳で、10歳年下のオリガ・ニコライェヴナ・ガヴリロヴァ(1875年 - 1968年)と結婚した。前年にオリガの娘エレーナ・ガヴリロヴァが、グラズノフの《ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調》作品100のパリ初演でピアノを弾いており、後にエレーナはグラズノフの養子となり、エレーナ・グラズノヴァと名乗るようになった。エレーナは1928年に、ピアニストのセルゲイ・タルノフスキーと結婚した。タルノフスキーはパリ時代のグラズノフのマネージャーも務めていた。タルノフスキーと離婚後は、ヘルベルト・ギュンター(1906 - 1978)と再婚して、エレーナ・ギュンター=グラズノヴァと名乗った。
グラズノフが70歳でパリに客死すると、その訃報は多くを驚かせた。長年グラズノフは、今の音楽ではなく過去のものと結び付けられてきたために、多くの人がグラズノフがまだ健在だったと初めて知ったのであった。

影響力

グラズノフとストラヴィンスキー

ストラヴィンスキーは『年代記』の中で、青年時代にグラズノフの完成された音楽形式、対位法の純粋さ、書法の澱みなさと確実さを非常に尊敬していたと認めている。15歳のときストラヴィンスキーはグラズノフの弦楽四重奏曲をピアノ独奏用に編曲している[36]。ストラヴィンスキーの《交響曲 変ホ長調》は、当時流行のグラズノフの交響曲をかなり模倣しており、自作の基本的な修正の際に、同じ調性のグラズノフの《交響曲 第8番》を雛形に用いてもいる。
グラズノフに対する敬意は時が経つにつれて変わった。ストラヴィンスキーは『回想録』において、グラズノフは最も性に合わない人間の一人だとして、《交響曲 変ホ長調》の非公開初演の際に経験した不吉な前兆についてこのように述べている。グラズノフは、演奏の後で「とても良い、とても良い」と言いながらストラヴィンスキーのところにやって来た。その後ストラヴィンスキーはこの出来事を思い返して、グラズノフは演奏会の後、通路に立っているストラヴィンスキーのそばを通って、ストラヴィンスキーにこう話し掛けたと畳み掛ける。グラズノフ曰く、「あんな曲にしては、管弦楽法が重苦しかったね」と。
ストラヴィンスキーに言わせれば、自分の音楽が選んだモダンな傾向をグラズノフが支持してくれなかったということになる。だがグラズノフばかりがこうした偏見に陥ったわけではない。二人の恩師リムスキー=コルサコフもまた、音楽院で徐々に進めたアカデミックな手法に馴染むうち、最晩年までに心底から保守化している。グラズノフはリムスキー=コルサコフとは違って、アカデミズムに厳格に従うことによってロシア音楽が隘路にはまり込む可能性については心配しておらず、それでリムスキー=コルサコフのように新しい発想や技法を渋々認めるという態度をとりもしなかった。
グラズノフがストラヴィンスキーに遠慮がちに(むろん無作法にならずに)接する機会はたまたまあった。但し、他人が居合わせたところでストラヴィンスキー作品をどう講評したかは別問題である。グラズノフは、《花火》の演奏に接して、ドイツ語で「才能はない、不協和音しかない("Kein Talent, nur Dissonanz")」と洩らしたと言われている(この時の聴衆の中にセルゲイ・ディアギレフがいて、この曲の表現力に「バレエ・リュス」の未来の座付き作曲家を見出している)。 グラズノフはとどのつまりはストラヴィンスキーを、管弦楽法の大家としてしか認めていなかった。1912年にヴラディーミル・テリャコフスキーに「《ペトルーシュカ》は、あれは音楽じゃないね。でも管弦楽法が見事で凄いんだ」と述べたという。

グラズノフとショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチはペトログラード音楽院に13歳で入学し、音楽院で最年少の学生となった。ピアノをレオニード・ニコラーエフに、作曲をマクシミリアン・シテインベルクに師事し、こつこつと骨身を惜しまず精進する学生になった。グラズノフはショスタコーヴィチに、若き日の自分の面影を見出したのかもしれない。シテインベルクの講座へは、ショスタコーヴィチの進歩について注意深く助言し、ショスタコーヴィチに博士号を与える際には、教授職につながるより高い学位を目指すようにショスタコーヴィチに薦めた。実家の経済的な困難から、ショスタコーヴィチはこの機会を利用することが出来なかった。1926年3月12日にニコライ・マルコ指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた、ショスタコーヴィチの《交響曲 第1番》の初演の手配もグラズノフが行なっている。これは、同じ音楽ホールでグラズノフの《交響曲 第1番》が初演されてから、44年後の出来事であった。交響曲が大旋風を捲き起こし、舞台上に現れた青年作曲家が不恰好にお辞儀すると会場が沸いたというのも、さながらグラズノフの青年時代の再現であった。
グラズノフはひとしきりの深酒のために、気づくとボリシェヴィキ政権によって、ウォッカやワインの専売店に出入りすることを御法度とされていた。しかしながらショスタコーヴィチの父親が(厳格に配給されていた)蒸留酒を入手していたことを知る。ショスタコーヴィチにとって、グラズノフの父親への要請を取り次ぐことは気の重い日課であった。第一にその要求は、父親を致命的な危機に陥れかねなかった。見せしめとして誰がボリシェヴィキに銃殺されるのかは、知れたものでなかったからである。第二に、音楽院で優等生でいられたのが賄賂のせいだとは誰にも思われたくなかったのだ。

作品

グラズノフの作品は、大まかに言って、ロシア国民楽派を受け継いだ民族主義を基調としつつ、チャイコフスキーの流れを汲むロシア・ロマン主義と融和させた作曲様式が認められる。前者からは色彩的で華麗な管弦楽法や豊かな和声法を、後者からは抒情的な旋律と洗練された優雅な表現を取り入れている。また、後年「ロシアのブラームス」との異名をとったように、年を経るにつれて、対位法的な構想や、綿密な動機労作による構築性、変奏の技法の援用といった特徴が強まった。
グラズノフのこんにち最も有名な作品は、バレエ音楽《ライモンダ》と《四季》、それにいくつかの後期の交響曲(例えば《第4番》《第5番》《第6番》)、それから2つの《演奏会用ワルツ》であろう。ヤッシャ・ハイフェッツが贔屓した《ヴァイオリン協奏曲》は、今でも時おり上演・録音されている。最後の作品となった《サクソフォーン協奏曲》(1934年)は、当時の西欧での流行を取り入れる能力が示されている。ただし実験音楽や音列技法、極小形式といった20世紀初期の運動はやり過ごし、世紀の変わり目までに完成させた洗練された手法から後ずさりすることはなかった。
グラズノフの音楽的な成長は矛盾に満ちている。(リムスキー=コルサコフを除いて)アカデミックな手法に心底不満を抱いていた、ほとんど独学の国民楽派の作曲家から、グラズノフ青年は偶像のように祭り上げられた。最初の二つの交響曲は、バラキレフやボロディンによって実践された、国民楽派の技法の集大成のように見える。グラズノフは20代前半までに、アカデミズムと国民楽派との侃々諤々の論争が、もはや無意味なものであることを悟った。作曲はロシアの民族音楽に根差してはいたものの、グラズノフは作曲技法を熟知したお蔭で、洗練され垢抜けた音楽語法で作曲することができるようになった。《交響曲 第3番》を手始めに、グラズノフはチャイコフスキーに似た手法で自作をことさら国際的にしようと試みた(ちなみに《交響曲 第3番》はチャイコフスキーに献呈されている)。
だが《交響曲 第3番》は過渡期の作品である。グラズノフはこの作品が大問題を引き起こしたことを認めている。グラズノフの成熟期は《第4番》からである。アントン・ルビンシテインに献呈された《第4番》は、西欧を見据えたロシア人による、かなりコスモポリタンな作品として作曲されたが、それでも音色は紛う方なくロシア的なままである。《第5番》においても国民楽派の伝統と西欧的な作曲技法の統合が図られている。《第7番》を作曲するまでに、音楽院の職責のためにグラズノフの作曲の筆が鈍り始める[53]。おまけに《第8番》以降では、深酒のために、創造力に警鐘が鳴り始めていたのかもしれない。《第9番》は一つの楽章をスケッチしたものの、未完成に終わった。
グラズノフの作品は、8つの交響曲とその他多数の管弦楽曲、5つの協奏曲、7つの弦楽四重奏曲、2つのピアノ・ソナタとその他のピアノ曲など、さまざまな器楽曲のほか、歌曲がある。3つのバレエ音楽を残したものの、オペラは遺さなかった。バレエ音楽《レ・シルフィード》は、ショパンのピアノ曲の寄せ集めをグラズノフが管弦楽化したものであり、舞踊家ミハイル・フォーキンとの共同制作だった。リャードフがバレエ・リュスのための《火の鳥》を完成できなくなると、お鉢が回ってきたのだが、グラズノフはこれを断り、結局、当時は無名のストラヴィンスキーが《火の鳥》を完成させた。
グラズノフは、ラフマニノフと同じく後半生において「時代遅れ」と看做されたが、近年においては、音源の普及のお蔭もあって、その創作力がより徹底して認識されるようになってきた。

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