作曲家:セザール・フランク Cesar Franck

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(Cesar-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日)は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。


概略

ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれ、この町で1834年には最初のコンサートを開いている。弟のジョゼフ(1825年 - 1891年)とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。1834年にリエージュ王立音楽院を卒業し、1835年に一家でパリに移住するとアントニーン・レイハなどに教えを受けた。1837年にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガンなどを学んだ。

1842年に退学し帰郷したが、1844年には再びパリに戻って活動した。その後作曲家志望を固め、また父の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父とは決別した。リストやショパンにも才能を注目されたが、ピアノ教師として、またその後は教会オルガニストとしてつましい生活を送った。この間作曲家としてはオラトリオなど宗教音楽を中心に手がけている。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者のアリスティド・カヴァイエ=コルが設置したオルガンを紹介して回った。

1858年に就任したサント・クロチルド聖堂のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともにフランス国民音楽協会の設立に加わり、1872年にパリ音楽院の教授に迎えられた。最晩年の1885年ごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調、交響曲ニ短調など、現在よく知られる代表作を次々に作曲し、にわかに注目された。彼の弟子のヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ガブリエル・ピエルネ、アンリ・デュパルク、ギー・ロパルツや、その影響を受けたアルベリク・マニャールらは“フランキスト”と呼ばれ、のちにドビュッシーらの印象主義音楽と対抗することになる。

作風

フランクはベートーヴェン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けた。その結果彼の音楽の特徴として、半音階的和声進行が目立つこと、形式的には循環形式を多用することが挙げられる。前半の楽章で登場した主題の一部や全体が後半の楽章で再現されることで曲全体の統一が図られる。また、フランクは更に進んで独自の様式を創り上げており、各楽章で主要な役割を演じる主題が単一のモチーフから生成される場合もある。1888年の『交響曲 ニ短調』ではこの手法が顕著に示されている。また、彼の作品では巧みな転調が頻繁に行われる。

フランクはJ.S.バッハを研究し対位法を巧みに用いている。作曲に際して比較的簡明な音価を用いる為、単一の旋律で提示される場合はいささか空疎であるが、循環形式内で複数の旋律で提示された場合は非常に高潔な印象を与えるのが特徴である。多くのフランクの門下生もこの手法にほぼ倣っているが、フランクの高みに触れたものはいない。

フランクは12度を掴むことが出来る大きな手を持っていた。これによってフランクのフーガ作品における声部連結は通常にない自由度を有しており、彼の鍵盤楽器作品では和音の幅の広さが特徴の一つとなっている。『ヴァイオリンソナタ』の書法について、次のような指摘がある。「音楽家の手が皆自分のように大きくないということを幸せにも忘れがちなフランクは、ピアノパート(特に第4楽章)に長10度の和音を散りばめている。(中略)以来、ピアニストはこれを演奏するために手を大きく開くことを強いられてきたのである。

フランク作品を読み解く鍵は彼の性格に求められるのかもしれない。彼の友人たちは彼について「これ以上ないほど謙遜し、気取りなく、尊敬の情に溢れ、勤勉であった。」と評した。弟子の1人で後にノートル=ダム聖堂の正オルガニストに就いたルイ・ヴィエルヌは、フランクに関する記憶を書き留めている。「(彼は)芸術の気品に対する、役割の高貴さに対する、そして音に対して語る際の熱い真摯さに対する絶え間ない配慮(を見せた)。(中略)歓喜と陰鬱、荘厳と神秘、力強さと天衣無縫さ。サント・クロチルド聖堂でのフランクはこれら全てを兼ね備えていた。」このフランク自身への賛美は彼の作品すべてに敷衍できるだろう。

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