作曲家:モーリス・デュリュフレ Maurice Durufle

モーリス・デュリュフレ(Maurice Durufle, 1902年1月11日 - 1986年6月16日)は、フランスの作曲家・オルガン奏者。

ルーヴィエール出身でパリに没した。長寿ではあったが、前半生での多忙な演奏活動と、後半生での交通事故の後遺症により、作曲活動が制約され、出版作品は、最も有名な《レクイエム》を含めて全部で14曲しかない。


生涯

少年時代にルーアン大聖堂の聖歌隊員を務め、聖堂の附属学校でピアノとオルガン演奏を学ぶ。17歳でパリに行き、シャルル・トゥルヌミールにオルガンを学ぶ。18歳でパリ音楽院に入学し、作曲をシャルル=マリー・ヴィドールとポール・デュカスに、オルガンをウジェーヌ・ジグーに師事した。1922年と1928年の間に、作曲科、ピアノ伴奏、和声法、オルガン科で表彰される。1927年にノートルダム大聖堂でルイ・ヴィエルヌの助手となる。ヴィエルヌはデュリュフレを後任演奏家にしたがったが、大聖堂の当局者はヴィエルヌを快く思っておらず、別人を任命した。しかし、ヴィエルヌが1750回目の演奏の最中に息を引き取った際、ヴィエルヌのそばで演奏台にいたのは、デュリュフレであった。

1929年にオルガン演奏と即興演奏に対して、「パリ・オルガンの友」賞を授与され、サンテティエンヌ=デュ=モン教会のオルガニストの地位を得た。また、フルートとヴィオラ、ピアノのための《前奏曲、レチタティーヴォと変奏曲Prelude, Recitatif et Variations 》作品3は、マルセル・モイーズやジャン・ドワイアンらによって初演された。
1939年に、ロジェ・デゾルミエールの指揮により、パリでプーランクの《オルガン協奏曲》の初演が行なわれた際、オルガン独奏者を務める。それに先立ち、オルガンのレジストレーションについてプーランクに助言を与えたのもデュリュフレであった。1942年にパリ音楽院で、マルセル・デュプレの作曲科の助手を務めた。1940年に、戦死したジャン・アランを追悼して《アランの名による前奏曲とフーガ"Prelude et Fugue sur le nom d'Alain" 》を作曲した。
1947年に、代表作となる《レクイエム》作品9を作曲、ポール・パレーの指揮により初演が行なわれた。フォーレの前例と類似点が見られるが、グレゴリオ聖歌やルネサンス音楽の影響がより強固である。全曲の導入部分を含む多くの楽章(例えばサンクトゥスやアニュス・デイなど)で、グレゴリオ聖歌の『レクイエム』からのメロディの引用が見られ、それらの引用がデュリュフレ流の高度に洗練されたフランス和声や対位法により彩られている。現在この作品には3つの版が存在している(オーケストラ伴奏版、小オーケストラ伴奏版、オブリガート・チェロ独奏つきオルガン伴奏版)。ミサ曲《クム・ユビロMesse "Cum Jubilo" 》も、同様に3つの版が存在する。
1947年に女性オルガニストのマリー=マドレーヌ・シュヴァリエが、サンテティエンヌ=デュ=モン教会におけるデュリュフレの助手となる。1953年に二人は結婚し、その後に教会オルガニスト職を分かち合うようになった。1975年にマリー=マドレーヌ夫人と共に自動車事故に遭い、二人とも一命は取り留めたが演奏活動が続けられなくなる。1977年に出版された混声合唱のための《主の祈り》が、最後の公開された作品となった。1986年にパリ郊外ルーヴシエンヌで他界した。

作品と演奏・録音

《レクイエム》がとりわけ有名だからといって、デュリュフレが傑出したオルガニストであったことを忘れてよいことにはならない。様々なオルガンのための音楽を初演しており、プーランクの《オルガン協奏曲》のほかに、恩師というべきヴィエルヌの《オルガン交響曲 第6番》を1935年に初演している。録音も数多く、自作やフォーレの《レクイエム》やプーランクの《オルガン協奏曲》以外にも、サン=サーンスの《交響曲第3番 ハ短調》、マルカントワーヌ・シャルパンティエの《クリスマスの真夜中のミサ》、オネゲルの《ダヴィデ王》や《クリスマス・カンタータ》を録音した。バッハのオルガン曲も録音しており、いくつかの曲ではマリー=マドレーヌ夫人の演奏も聞くことができる。ほかに、トゥルヌミールやヴィエルヌなどの作曲家のオルガン作品も録音した。

Wikipedia

inserted by FC2 system