作曲家:ニコラ・シェドヴィル Nicolas Chedeville

ニコラ・シェドヴィル(Nicolas Chedeville, 1705年2月20日 - 1782年8月6日)は、フランスの作曲家、ミュゼットの演奏者兼製作者。


生涯

ウール県のセレで生まれる。音楽家のピエール・シェドヴィル(1694年 - 1725年)、エスプリ・フィリップ ・シェドヴィル(1696年 - 1762年)とは兄弟。叔父で代父のルイ・オトテールから、音楽教育と楽器の作り方を学ぶ。1720年代にはパリ・オペラ座のオーケストラでオーボエとミュゼットの演奏を始める。1732年にジャン・オテトールが亡くなった後、王立のオーボエ楽団「Les Grands Hautbois」の彼のポストを引き継ぐ。1748年7月、オペラから引退するが、以後もミュゼットの演奏は続ける。
70歳近くになった頃、オルレアン家にも仕えたことがある側用人の若い娘と結婚。シェドヴィルは自分のことを、王に仕えるミュゼット奏者だと言っていた。晩年は、経済的危機に陥り、1774年には、10軒あった家を債権者に譲渡し、妻とも離婚した。1777年、「'Les Grands Hautbois」を辞して、1778年には破産を申し立て、その4年後、パリで永眠。しかし、1790年になっても、弁護士たちは彼の問題の処理に追われていた。

ラ・ボルドは彼のことを「フランスが生んだ最も有名なミュゼット奏者」と称賛しながら、彼が死んだ年を実際より2年早い1780年だと間違えていた。シェドヴィルは1750年頃からヴィクトワール・ド・フランスにミュゼットを教えだす。そのことで上流階級の間で人気の教師となり、ついには「フランス女性のミュゼットの師」という称号まで授かった。彼はミュゼット製作者でもあり、ミュゼットの音域を中央ハまで広げた。

仕事

シェドヴィルの作品は裕福なアマチュア音楽家たちの娯楽のために書かれた。当時のフランスの貴族は田舎(ペザント)の生活にロマンティックな夢想を抱いていて、田舎風の楽器の演奏に楽しみを見いだしていた。(その後、フランス革命がまったく異なる展望をもたらすことになる)。
シェドヴィルの最初の出版された作品は、ミュゼットまたはハーディ・ガーディのための小品集で、「Amusements champetres(田舎の楽しみ)」と題され、1729年12月に刊行された。この時は「Chedeville le jeune」を名乗ったが、後の作品では「Chedeville le cadet」に変わっている(どちらも意味は「若いシェドヴィル」)。続いて発表された「Amusements champetres」第2巻は、技術的にも音楽的にもより高度なものになっている。戦争と「好戦的なイメージ」の表現から、戦いの神・女神の名をつけられた「Amusemens de Bellone, ou Les plaisirs de Mars(ベローナの楽しみ、またはマルスの歓しみ)」では、作風ががらっと変わる。コンティ王子に従って行った軍事行動にインスパイアされた作られたからである。しかし、フルート、オーボエ、ヴァイオリンのために書かれた彼の唯一の曲集「6つのソナタ」では、イタリアの影響を受けた厳粛な音楽に戻っている。

ヴィヴァルディの偽作

1737年、シャドヴィルはジャン=ノエル・マルシャンと組んで曲集を出版するが、それには「アントニオ・ヴィヴァルディ作曲『忠実な羊飼い(Il pastor Fido)』Op.13」というタイトルがついていた。シェドヴィルはその出版で利益を得たが、1749年、マルシャンによる公正証書で偽作と証明された。ミュゼットのための作品がなかった偉大な作曲家の名を利用して、ミュゼットを流行らせることが目的だったのかもしれない。
イタリア音楽への彼の関心は、10人のイタリア人作曲家(と、イタリア人でないヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ、アントワーヌ・マオウ)の協奏曲やソナタをミュゼット、ハーディ・ガーディ、フルートといった楽器のために編曲した曲集を1739年8月に出版するに至る。ヴィヴァルディの「四季」をミュゼット、ヴァイオリン、フルート(フランスのフルートはリコーダーを指すこともあるが)のために編曲した「Le printems, ou Les saisons amusantes」(1739年)は面白いくらいに好評だった。彼はヴィヴァルディの「夏」を「協奏曲 ニ短調(Op.8-9)」に置き換え、「冬」の中間楽章を「秋」に移動し、さらに「冬」を「協奏曲 ハ長調(Op.8-12)」と入れ替えた。好き勝手のアレンジで、さらには自作の旋律まで書き加えている。

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