作曲家:ルイジ・ボッケリーニ Luigi Boccherini

ルイジ・ボッケリーニ(Luigi Rodolfo Boccherini、1743年2月19日 - 1805年5月28日)は、イタリアのルッカ生まれの作曲家、チェロ奏者。

同時代のハイドン、モーツァルトに比して現在では作曲家としては隠れた存在であるが、存命中はチェロ演奏家としても高名で、自身の演奏のためにチェロ協奏曲・チェロソナタ、弦楽四重奏曲にチェロを1本加えた弦楽五重奏曲を多く残した。その中でも弦楽五重奏曲ホ長調G275の第3楽章は「ボッケリーニのメヌエット」として有名である。
その作風は優美で時に憂いを含むものでありハイドンとの対比でハイドン夫人と呼ばれることもあった。


生涯

当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれる。(ルッカは後にプッチーニの生誕地としても有名)。父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者だった。彼や、ルッカ大聖堂楽長のフランチェスコ・ヴァヌッチらからチェロを学び、13歳でデビューを果たした。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得る。
父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のマンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行う。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエルで成功を収めるなど、名声を極めるが、1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子付き奏者兼作曲家となり、マドリッドで後半生を送った。(同時期に画家のゴヤもドン・ルイス皇子の庇護を受けている)。
1785年ドン・ルイス皇子の死去後、かつてはプロイセンに渡りフリードリヒ・ヴィルヘルム2世に仕えたとされたが、実際にはスペインを離れず、王室作曲家として作品をベルリンに送っていたらしい。晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去った。遺骨は1927年になり生地ルッカへと移されている。

作品

ボッケリーニはハイドン、モーツァルトと同時代の作曲家でありながら、彼らとは一味異なる独特な作風を固持しているといわれる。
つまりモチーフの展開を中心としたソナタ形式を必ずしも主体とせず、複数のメロディーを巧みに繰り返し織り交ぜながら情緒感を出していくのがその特徴で、時としてその音楽は古めかしいバロック音楽のようにも斬新なロマン派音楽のようにも聞こえる。また、後期の作品にはスペインの固有音楽を取り入れ国民楽派の先駆けとも思える作品を作っている。
これは一つにはボッケリーニ自身が当時まだ通奏低音に使われることの多かったチェロのヴィルトゥオーソであったため、自らを主演奏者とする形式性より即興性を生かした音楽を作ったこと、また、当時の音楽の中心地であるウィーンやパリから離れたスペインの地で活躍していたこともその理由として考えられる。

ボッケリーニの音楽史上の功績としては室内楽のジャンル確立が挙げられる。弦楽四重奏曲と、とりわけ弦楽五重奏曲では抜きん出た量と質を誇っているが、ジャンル確立に欠かせない四声を対等に扱うという点では最初期の作品(例えば弦楽四重奏曲Op.2 G.159~164(1761年))において十分完成されており、これは同時代のハイドンの作品群を凌駕している。
ベートーヴェンの活躍以降、ボッケリーニのような形式をさほど重視しない音楽は主流とは見なされず、20世紀まで一部の楽曲を除き忘れ去られていたが、近年になりその情緒的で優美な作品を再評価する動きも出てきており、その中にはチェリストのアンナー・ビルスマもいる。

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