作曲家:ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet

ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838年10月25日 - 1875年6月3日)は、19世紀フランスの作曲家である。
ジョルジュ・ビゼー

代表作に『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『美しきパースの娘(日本では作中のセレナードの旋律が「小さな木の実」に転用され有名)』など。

生涯

ジョルジュ・ビゼーは1838年、パリに生まれた。最初につけられた名前はアレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー (Alexandre-Cesar-Leopold Bizet) だったが、洗礼時に改名された。

父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせた。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。

オペラなどの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときのオペラ『真珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立する。その後、フランス人の作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、オペラ『カルメン』などを作曲したが、1875年3月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わった。ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つだった。

1869年にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚した。師は既に1862年に亡くなっていた。ビゼーは『カルメン』初演の約3ヵ月後である1875年6月3日、敗血症のため36歳で死去したが、のちに彼の音楽は世界的に認められるようになった。

なお、妻のジュヌヴィエーヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、ロスチャイルド財閥の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。ジャックの学友のマルセル・プルーストが後に小説『失われた時を求めて』の中で、彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。

作品

ビゼーは生涯に交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としない。その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがある。

オペラ『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述している。運命を引き受ける至高の個人としてのヒロインに、感応するところが大だったと考えられる。ちなみにビゼーは舞台作品は約30曲以上も残しているが、『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていない。なおオペラ『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲である。

オペラの合間に作曲したピアノ曲は少数だが、グレン・グールドが演奏したことで知られる『半音階的変奏曲』、無言歌『ラインの歌』(1865年)などの作品は現在も演奏される。また、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番などのピアノ独奏用編曲も残しており、特にサン=サーンスの編曲は技巧派ピアニストが取り上げる難曲として知られている。

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